第132回:ハッケヨイ ノコッタ~私の贔屓の力士たち(3)
更新日2008/11/20
やせっぽっちのお相撲さんが、やたら大きな相撲を取っている。自分の身体の倍もあろうという相手を上手投げで倒してしまった。凄いなあ。でも、何か痛そうに肩を押さえている。脱臼したんじゃないか。大丈夫か。
これが、私が初めて千代の富士を見た頃の印象だった。不思議なもので、私が必死になって応援していた力士が引退する頃になると、必ず気になる次の力士が出てくる。それは重なることはないのだが、微妙に継ぎ目がなく続いている。
清國が引退を決め、「もう相撲なんか観たくない」と思っているところへ魁傑が台頭してきて、その魁傑が引退する頃、「今度こそ相撲に興味を失った」と感じた頃に、千代の富士が現れてきたのである。
千代の富士は、無謀と思える自分の身体に似合わない相撲を取った(そして、脱臼を繰り返していた)が、そこが今までの私の好きな力士にない魅力でもあった。さらに、彼は私と同級と言うことで親近感もあった。自分と同じ学年の力士ががんばっているのだ。
1978年の九州場所前後から彼を注目していたのだが、「よし、勝ち越しだ」と思って次の場所に期待を掛けると、無理な相撲を取って負け越し、さらに脱臼がひどくなると休場をし、十両に落ちてしまう。
それでも何とか前頭に復帰し、綱渡りのようなギリギリの勝ち越しを続けていた。1979年から翌80年にかけては、彼の相撲に心底一喜一憂した、一番ワクワクする、観ていて楽しい時期だったと思う。
大きな、大きな相手の前褌(まえみつ)をとって、一気に寄るスピードを見せて勝ったかと思うと、次の日は軽量力士の悲しさ、簡単に寄り倒されたりするのだ。どんなシーンが飛び出すか、立ち合ってみなければ皆目見当のつかない、スリリングな相撲内容だった。
ところがそのうちに、専門筋に言わせると自覚が出たということか、猛烈な筋肉トレーニングと、激しいぶつかり稽古を重ねていったに違いない、身体が大きくなり、スピード感もさらに加わってきた。何より、軽く倒されるような脆さがなくなり、相撲が安定してきた。
今資料を見てみると、1981年というのが千代の富士にとって凄まじい年であることが分かる。前年の名古屋場所からこの年の初場所まで4回連続の技能賞を受賞(初場所は殊勲賞も併せ受賞)し、翌春場所に大関に昇進、春、夏、名古屋場所と好成績を収め、殊に名古屋では優勝して横綱になる。一年の内に、関脇→大関→横綱と出世をしたのである。
次の新横綱の秋場所では途中休場し、前途が危ぶまれたが、復帰の九州場所で再び優勝を果たす。これは、また1988年まで続く、怒濤の九州場所連続V8の最初の優勝でもあった。
(北海道出身でありながら、奥さんの出身である九州場所にはめっぽう強い。1990年、彼の35歳の年、秋場所には完全休場し、「千代の富士もこれまでか」と言われ、いわば背水の陣で臨んだ九州場所でも、見事に優勝している)
その1981年から、千代の富士はとんでもなく強くなった。いく度かスランプはあったが、それを抜け出す度に以前の自分自身を凌駕して強さを増していくという、実に逞しい力士に成長したのだ。
ところが、ファンの心理というのは頼りなげなものだと思う。あれだけ無理な相撲を取り、勝ったり負けたりを繰り返していたとき、そして本物の力を身につけはじめグッと勢いに乗ってきた時期。
その頃までは、勝敗がその日の酒の味を決めるほどに肩入れしていたのに、所謂世間がウルフ・フィーバーと言い出した頃になると、なぜか心の高揚感が引いていく思いになっているのである。
その後の「昭和の大横綱」の一人としての栄光の時代は、いつも感心してその業績には注目していたものの、声を嗄らして応援するようなことは、なくなってしまったのだ。
それでも、1991年の夏場所初日、新鋭の貴花田に敗れたときに、土俵下でフッと漏らした笑顔を見たときは、突然寂しさがこみ上げてきた。彼は負けたときには決まって、「次は絶対に負けねえからな」と相手力士を睨みつける、そういう男だったはずだ。
そして、数日後の引退会見で、「体力の限界、気力もなくなり・・・」の言葉を発し、俯いた時の彼の姿を見て、「あの、あれだけやせっぽっちだった人が、すごいことを僕たちに見せてくれたんだなあ」と本当にしみじみとした心持ちになった。そして、同級の友人を電話で誘って、銀座の居酒屋に飲みに出掛けたのだった。
-…つづく
第133回:ハッケヨイ ノコッタ~私の贔屓の力士たち(4)