第7回:酒場サルーンと女性たち その7
写真がアメリカに入ってきたのは1839年だと言われている。当初は乾板写真で、ガラスに薄く塗った感光剤、これに様々な秘密、工夫があったようだ。それを暗室で現像、焼き付けをするから、著しく機動性に欠ける道具だった。それでも、馬車に撮影機、カメラだが、大きな箱に前方にレンズ、後方には黒い布を被って被写体、焦点を観る窓、それに感光剤を塗ったガラスの板何十枚か、マグネシュウムを燃やすフラッシュ、頑丈な三脚、撮ったガラス版を保存するための暗箱と仕掛けが大きかった。
それでも西部を回る写真屋がいて、結構な商売になっていた。自分の姿を人に見てもらいたい、後世に残したいという願望は誰しもが抱く第二の本能のようなものなのだろうか。赤貧を洗うような開拓民まで、部落に写真屋が来ると大枚を叩いて写真を撮ってもらっている。写真屋は特別な技術を持ったエンジニアとみなされていた。
西部の辺境にそんな写真屋が入り込んできたのは、南北戦争が終わり、ゴールドラッシュもひと段落ついた頃、1870年以降だった。大掛かりな道具だてが必要だったので、スナップ写真を撮ることなどハナから不可能だった。写真は正装し、写真館で撮ってもらうものだった。ブッチ・キャサディー、サンダンス・キッズら5人がまるで田舎の銀行員のようないでたち、帽子まで被って写真に収まったのはテキサスはダラスのシュワルツ写真館でのことだ。

シュワルツ写真館でのワイルド・バンチの記念撮影
カメラが爆発的に広がったのは、1888年にイーストマン・コダック社が小さな箱のようなカメラにフィルムを内蔵させ、巻き取る方式にしてからだ。100枚撮り終えると箱ごとコダック社に返送し、現像、焼き付けをしてもらうやり方だった。高価な嗜好品だったが、新しモノ好きのアメリカ人の間に一挙に広がった。現存する西部のスナップ写真は、大半がこのコダック社製のカメラで撮られたものだ。
サルーンの写真、外観、内装などを写したものは相当数出回っているが、いずれも1900年近くになってからのもので、それ以前の辺境鉱山町のサルーンの写真は極めて少ない。
そこで働く娼婦たちの写真はさらに少なく、大半はそれらしきドレスを着て後世になってから酔狂で撮ったものだ。サルーンにたむろする女性、ヴィクトリア調の室内で撮った現存する写真は100%近くヤラセだと言い切って良いだろう。いくら一張羅のドレスを着込んでも、自分の過去の職業が一眼で分かる写真を後世に残す娼婦はいないだろう。それに名前も源氏名、ニックネームで、できるだけファンシーで、セクシーな名前を持っていた。本名が知れている娼婦は稀だった。
1870年に行われたネバダ州のヴァージニア・シティでの世論調査の結果が残っている。それによると、15歳以上の女性は2,190人の住人がおり、そのうち109人がプロの娼婦、サルーンで準娼婦のような女給が48名いたとあるから、女性人口の7%以上が娼婦業に携わっていたことになる。1875年には、同じ調査で町の女性人口は3,572名に急増している。そして、娼婦人口も298名に増えている。
しかし、この数字でさえ極端に低めだとしている歴史家が多い。と言うのは、国勢調査で、自分の職業は売春婦だと答えるには相当ガッツがいるだろうし、その手の女性は女中、洗濯女、裁縫師と答える者が常だったと言うのだ。そんな女性が250人もおり、ほかに職業なしと答えているの女性が180名もいて、あなたの職業は? と聞かれた時、ナシ、NONと返答する女性のほとんどが娼婦だったと言うのだ。そうなると、15歳以上の女性の20%が娼婦だったということになる。
それに、女性の職業は上手く結婚して家庭に治まるか、田舎の小学校の教師になるかしかなかった。あとは、女中、洗濯女、掃除婦だけだった。いくら女日照りが激しかった西部ではあったにしろ、娼婦の需要が異常に高かったことが知れる。辺境の鉱山町の男たちは、粗製の酒を浴びるように呑み、娼婦を抱くことにしか、息抜き、楽しみを見出せなかったのだろう。
娼婦たちは通常あだ名、ニックネームで呼ばれていたから、実名は知られておらず、生年月日も没年も分からないことが多い。また、あだ名も酒場に出入りしている男どもが勝手につけたものが多い。Jeremy Agnewがよく知られた娼婦の名前を60ばかり挙げている。<大口たたきのアニー><デカ鼻ケイト><筋肉ドイツ女><豚のネリー><ガラガラヘビのケイト><汚らしいチビ><デカ尻のネリー><ヴェルベット尻><素晴らしき中国女>などなど、随分乱暴なあだ名をつけている。その中に<黒真珠><レディーゴダイバ><サフォー>なんてのは自称だろうか。
そして、酒場の呼び方だが、「サルーン」というのが一般的で、女性が侍るところは概ね「パーラー」と呼んでいた。早く言えば「娼館」だが、英語で「Brothel」「Boading House」(本来下宿屋だが娼婦の館の意味に使われていた)「Dance Saloon」「the Plain」「Palace」「Bordello」と呼ばれ、「Crib」は子供用の簡易ベッドや馬草を入れる桶、狭い部屋、小屋を意味するが、西部では娼婦が住みかつそこで客を取る掘立て小屋を指す。娼婦自身が掘立て小屋「crib」を所有していることはマレで、大半は週決めの賃借だった。
コロラド州、テリュライドにあったcrib
これはまだ立派な方で、普通は一間の掘っ立て小屋で、娼婦はそこで暮らし、客を取っていた
テリュライドは今、高級スキーリゾートに変身し、町中ならショットガンハウス
(道路に面した間口7、8間の細長い家)でも5、6千万円は下らない
車の中古価格を年式ごとに査定できる本を「ブルーブック」というが、デンバーでは1858年にいち早く「レッドブック」なるものが発行されている。もちろん『Red light district』=赤線ガイドブックだ。それによると、娼館で入場料を徴収していたことが分かる。それがピンキリで75セントで飲み物一杯付きから、足を踏み入れるだけで25ドルも取る高級な娼館まであったことが分かる。
辺境の鉱山町のサルーンでは、当然、入場料など取らなかった。飲み代だけだ。アメリカの習慣で、いつも一杯ごとに支払った。たくさん飲みまくって、最後にお勘定!はなかった。ツケもなかった。
酒はすべてウイスキーと呼んでいたようだが、アルコールの総称のようなもので、ラム、テキーラ、どこで誰がなんの原料で造ったのか不明の怪しげなアルコールも横行していた。西部劇に出てくる小さなショットグラスで引っかけるのだが、1ガロン(3.7リットル)で80杯から120杯取っていたから、テントサルーンの安いところで25セントで100杯ショットグラスで売れると、25ドルの売り上げになる。あとはいかにグイグイ、カポンカポンと大量に呑んでもらうかが鍵になる。
サルーンを始める以上は仕入れ先をがっちり確保しているだろうが、そこから、いかに定期的に馬車、ミュール・トレイン(ミュールに引かせた荷車)で現地まで配送して貰うかが肝心カナメになる。
サルーンの客を素早く酔っぱらわせるため、広くクローラル・ハイドレイト(Chloral Hydrate)=通称ノックアウト・ドロップ(K.O.ドロップ)という、ウイスキーに数滴垂らすだけで意識不明に陥る薬品が使われていた。
日本の土佐は、大酒呑天国として有名だが、小さな居酒屋の女給さんでも一升平げるのはザラで、女給さん募集の張り紙に釣られて応募しても、5合に一滴でも欠けるようなら務まらないとされていたが、辺境のサルーンの女性たちも土佐の女給さんたちに負けてはいなかったようだ。
我らがモンゴロイドは、本来体質的にアルコールに弱いのではないかと思える。中には酒豪もいるのだが、アングロサクソン、ゲルマン、ケルト、ラテン、私の知る西欧人は底なしに呑む、そして、ヘベレケに酩酊することがないように思う。
西部の辺境の男たちもきっと大酒飲みがたくさんいただろうし、酒場の女たちも彼らに立派に対抗していたに違いない。
第8回:酒場サルーンと女性たち その8
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