第11回: 個性なんかイラナイ!
大学時代の恩師から"のらり編集室"あてにメールをいただきました。「いつも楽しく拝読しています」と書いてあり、緊張しました。なぜなら"感性工学"という文字を入れたタイトルは、恩師に内緒でつけたからです。どうして見つかってしまったのだろう、もしや……とロボット型のサーチエンジンで"感性工学"を検索すると、なんと7番目に出てきてしまいました。もしかしたら、感性工学に関心のある人、全国の大学で感性工学を学ぶ人、教える人たちは、ほぼすべての人がこのページを読んでいるかもしれません。どうしましょう。私には"これはエッセイなので許してください"としか言えません。どうか今後も温かく見守ってください(笑)。
さて、このエッセイはいままで10回連載しました。そろそろ、こんな疑問を感じていませんか?
"このエッセイのとおりに書いたら、文章に個性がなくなってしまう。誰が書いても同じ文になってしまう"
どうぞ心配なさらないでください。それでいいンです。ライターの商品となる文章に"個性"はそれほど重要ではありません。むしろ、無くてもいいくらいです。書き手の個性を前面に出す必要はありません。第一回でも書きましたが、ライターが書く文章と、エッセイストや小説家が書く文章は違います。それが、文章に個性を与えるか否か、という違いになります。
最近は、雑誌に記事を書く人はすべて"ライター"と呼ばれています。海外では"ライター"と言えば作家を指しますが、日本における"ライター"とは"情報を伝える文章を書く"人です。個性的な文章はエッセイやコラムと呼ぶべきです。エッセイを書く人はエッセイストであり、コラムを書く人はコラムニストです。異なる仕事だからこそ、ちゃんと別の名前があるわけです。もちろん、どちらも"書く"という作業が好きな人が担うわけですから、兼業することもあります。
私は主にパソコン雑誌で機械やソフトウェアを紹介する記事を書いています。これは"ライター"の仕事です。しかし、この"のらり"に関してはエッセイを書いています。"オンラインプレーヤー"という雑誌では、ゲームを紹介するライターとしての仕事と、そのライターとして業界を眺めた感想を述べる"コラムニスト"という仕事の両方を担当します。あまり差は出ていませんが、私自身は書き分けています。
コラムやエッセイや小説は、書き手の主観がふんだんに混じります。読者はその主観を楽しむわけですね。したがって、文章の技術は必ずしも教科書どおりにしなくても構いません。漢字にふりがなを振って別の読み方をさせる、とか、口語体や流行語をふんだんに使って、若い人に親しみやすくする、という手法もできます。
その極端な例が、高見広春氏の『バトルロワイヤル』という小説です。中学生同士が殺しあうと言うショッキングなテーマで、映画化され論争にもなりました。この小説は、正直に申し上げて、"正しい日本語"とは言えないほど乱れた文体でした。私も最初は読みづらいな、と感じましたが、しだいに、物語と文章の乱れがリンクしているな、と感じはじめました。極限の環境にある中学生の感情は、乱れた文体のほうが直接的に伝わってきます。失礼な話ですが、本当に中学生が体験談を書いたようで、しかし私は、その文体にリアリティを感じました。この物語を、私のエッセイにしたがった日本語で書いたら、ストーリーの面白さは伝わらなかったと思います。作家がこの文体を"わざと"編み出したとしたら、その試みは大成功でした。まさに文章の芸術、つまり文芸の世界だと言えます。
しかし、ライターは"職人"です。大工さんや料理人と同じで、基本をしっかりと押さえておかないと売り物になりません。もちろん創意工夫は必要ですが、基本的な技術から離れることは許されません。読者に伝えたいことを、正しい日本語でつづる。これがライターの仕事です。自己満足のために難解な文章を綴ったり、日本語の文法を無視したりしてはいけません。
むしろ、ライターにとって個性とは、文章に現れない部分で発揮されます。それは取材力や幅広い人間関係、深い経験です。どんなテーマでも中学生が理解できるような"正しい日本語"で書く。しかし、その内容は誰にもまねができない。優秀なライターはそうあるべきです。
→ 第12回:体言止めは投げやりの証拠