高野山行きの電車は高野山に行かない。先頭車両の行き先表示は高野山となっているけれど、小さい字で極楽橋と付記されている。電車は極楽橋まで、そこから先はケーブルカーだ。霊験あらたかな山は険しく、平地での交通手段を寄せつけなかった。しかし鉄道人は執念で路線を延ばし、最後はケーブルカーという切り札を使った。乗り換えは悔しいが、ロープウェイではなく、レールにこだわった。高野山電気鉄道の極楽橋到達は1929(昭和4)年。その2年後に極楽橋から高野山までのケーブルカーが開業している。
橋本を出た電車は山道を登ると思いきや、いきなり勾配を降り、獣道に潜り込むように進んだ。JR和歌山線と国道24号線の下を走り、鉄橋で紀ノ川を越える。川を越えると右にカーブして、橋本の街を見下ろす位置まで上っていく。険しい道程を予感させるルートである。現在の鉄道技術なら、橋本駅の上を横切り、高架鉄橋で紀ノ川を越えたはずだ。線路のカタチにも歴史を感じる。鉄道もクルマもない時代、高野山へ向かった人々の苦難、鉄道を敷こうとした人の思いはどれほどのものか。私の旅は鉄道の終点ですぐに折り返しているけれど、高野山はしっかり見物しようと思っている。
学文路駅にある大きな木。
山の腹を上る途中に学文路という駅があった。高野山は弘法大師が拓いた霊場だから、師に学ぶ人が行き来したという意味だろうか。この駅の入場券は、学問の路に入る、という縁起を担いで受験生に人気がある。四国の徳島本線に学という駅があり、こちらも受験シーズンに売れるそうだ。そういえば今朝に乗った紀州鉄道には学門駅があった。学文路から学門駅までの運賃の合計は2240円だ。南海、JR、紀州鉄道と3社にまたがるから、通しの切符は買えないだろうけれど、縁起担ぎのお守りとしては手頃な値段である。記念切符として売り出せばいいのに、と思う。お守りとして買ったとしても、実際に乗車する人は希だろうから丸儲けである。
学文路までは勾配を上ってきた。学文路から先は下る。切り通しを造らずに地勢のまま線路を敷いたためか、アップダウンの激しい路線となっている。次の九度山からはさらに険しい山道になり、トンネルを潜ると高野下駅だ。ここでは約7分間停まり、逆方向の電車を待つ。谷間の小さな駅。人家は多いが静かだ。乗客たちがときどき電車から出てきてホームに佇む。背筋を伸ばしたり、外の空気を吸ったり、たばこを吸ったりしている。近くの民家から犬の鳴き声が聞こえる。主人がクルマで出かけるところで、連れて行けとせがんでいる。きりっとした顔の日本犬。あれが紀州犬だろうか。弘法大師を高野山の霊場に導いた犬だという言い伝えがある。
高野下駅で休憩。
高野下駅を出ると上り道が続く。山肌の緑が少しずつ褪せてきて、黄色くなりかけている。線路はどんどん高度を上げて、高野下から断続的に続いている集落を遠く見下ろすようになってきた。山に挟まれたところに家が密集する様子は、アニメ映画『風の谷のナウシカ』の主人公が住んでいた風の谷を思い出す。どんな人々が、何を糧に暮らしているのか想像もつかない。弘法大師を支えた人々が先祖なのだろう、とまでは考えが及ぶけれど。
それにしても険しい山岳路線である。電車はスピードを落とし、一歩ずつ確かめながら進んでいるようだ。線路は右に曲がり、左に曲がり、なんとか上れそうなルートを選んでいる。高野山電鉄から路線を引き継いだ南海電鉄にとって、この区間の踏破は重要なテーマだった。そのために開発された電車をズームカーと呼んでいる。出力とトルクを強化したモーターを搭載し、平野部で時速100kmの走行、山岳路では低速で安定した登坂力を持つ。山岳区間は1キロメートルにつき50メートルも上る急勾配で、さらに半径100メートルのカーブが連続する。右へ左へと身体をくねらせて、銀色の車体が高野山へと登っていく。その様子を上空から見たなら、メタリックな大蛇が谷を這い上がるように見えるだろう。
“風の谷”を眺める。
極楽橋では電車の到着に合わせるようにケーブルカーが出発する。特急電車が2本ほど停まっており、その見物を含めて構内を散歩したかったけれど、案内の声にせかされてケーブルカーに乗った。2両連結の大きな車体である。数両で到着する電車からの乗り継ぎ客を受け止めるためだろうし、なによりも高野山詣での人気を示す規模である。車体は満員の乗客を載せてグイグイと引っ張られた。
高野山駅に着いたけれど、高野山の見どころである奥の院までは5キロメートルも離れている。高野山詣でが目的なら歩いて行くべきかもしれないが、ちょっと見物するだけのつもりだからバスに乗る。私の周遊きっぷはこのあたりを走るバスも乗り降り自由だ。満席のバスに乗ると、さらに乗ってくるお客さんに押されて奥へ送り込まれてしまう。ひとつだけ空いていた席に座れば、途中のバス停では降りづらい雰囲気だ。私は窮屈な姿勢で案内図を開き、バスの終点の奥の院まで行くことにした。高野山の象徴的な建物の根本大塔を見物すれば満足だ、と思っていたけれど。
ケーブルカーに乗り継ぐ。
しかし、結果的にこれがよかった。奥の院から弘法大師の御廟までは広大な霊園になっていて、大企業の殉職者を慰霊する墓地や、歴史上の有名人たちの墓を見つけては喜んだ。企業の墓石はロケット型など風変わりなものが多く、墓参りの用がなくても見物に値する。山側の小道を歩けば、そこには豊臣秀吉一家、織田信長の墓もある。四国八十八箇所参りのお札を納めるところがある。ここがゴールだったのか。不勉強な私は、ここで初めて四国八十八箇所参りの起点と終点がここ高野山金剛峰寺であることを知った。
四国八十八箇所参りは弘法大師の功績であり、高野山で始まり高野山で終わってこそ完結する。なるほど、私の頭の中で、京都・奈良と和歌山港を結ぶラインがようやく形を成してきた。和歌山港からその先の四国へ通じる道は信仰によって開発された。八十八箇所参りの第1番札所は鳴門市にあり、まさに和歌山の対岸と言える。
昨日、和歌山港で見送ったフェリーの後ろ姿を思い出した。私はまだ四国に行ったことがない。しかし、結果的に先に高野山を訪問できて良かった。いつか向かうべき四国への思いが募っていた。
織田信長の墓所。
-…つづく