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■亜米利加よもやま通信 ~コロラドロッキーの山裾の町から

第545回:引退生活の理想郷と山小屋暮らし

更新日2018/01/18




ケンとヴィッキーの家は私たちの小屋から私道、郡道、そしてまた彼らの私道を通り、正式な公認道路では1キロメートルの距離になりますが、森を抜け深さ20メートルばかりの乾いた谷を登り降りすれば200、300メートルのところにあります。もちろん私たちはブーツを履いて近道の藪漕ぎルートで行き来します。

ケンとヴィッキーの家もその辺りも、わが小屋周辺と比較にならないくらい整備されていて、ウチのダンナサンに、「こりゃ、壮大な差がつくな~~」と、溜め息をつかせるほどです。家自体がとても立派で、いかにもお金も労力も糸目をつけず、彼らの思うように、理想を追求したと言えそうなもので、思いっ切り大きく取った東側の窓は、窓というより全面羽目殺しのガラスの展望台のようですし、西側も夕陽をたっぷり楽しめる広いテラスに続くフレンチドアになっているという具合で、ハリウッド的豪邸とまではいきませんが、彼ら二人でこの高原でゆったりと余生を過ごすには十分以上の造りなのです。

ケンはデトロイトのフォードの工場で早期退職するまで働いていた工場労働者です。高校を卒業してすぐに働き始めたといいますから、全くフォードのエライサンではありません。途中、彼を見込んでのことでしょうが、会社が彼に電気、電子技師のトレーニングを受けさせていますから、とても優秀だったのでしょう。アメリカでは入社した時の条件が一生付いて回ります。高卒労働者のケンがいかに優秀であっても、工場長的な管理職には決してなれません。

ケンの労働条件を聞くと、日本人は勤勉だというのは絵に描いた餅だと思わせられます。50歳で早期引退しようと決めてから、彼は土日全く休まず、年にクリスマスとお正月、夏のレーバーデイ以外全く休まず30年間働き通したのです。何でも工場は24時間のフル操業で、機械を休まず動かしていますから、熟練工の長時間勤務は歓迎されたそうです。

50歳になった時、どこで引退生活をしようかと、模索するために大型バス程もあるキャンピングカーでアメリカの西半分を回り、ここグレードパークの地所にめぐり逢い、いわば一目ぼれで、こここそは余生を過ごす場所だと即決したのです。

まず、大型キャンピングカーがゆとりを持って納まるサイズのガレージを建て、そこに住みながら、私道を造り、家を建てる土地を造成し(クボタの大型トラクター、小型のボブキャット、フルサイズ4駆のピックアップトラックを購入して、ケン自からの手ですべてやり遂げています)、ケンとヴィッキーはここに彼らの引退生活の理想郷を創りあげたのです。

二人ともあきれるくらいの働き者で、私道沿いにある何百本もの松の木を剪定さえしているのです。ケンによれば日当たりを良くするだけでなく、地面から3メートルくらいは枝を払った方が木そのものがグンと健康になる…そうで、郡道から彼らの家に至る200メートルばかりの私道、そして家の周囲はまるで公園のようなのです。

ウチの仙人の基本的姿勢は地球にできるだけ傷跡を残さずに棲み、彼が死んだ後ですべてが大地に帰ることができるような生き方…と見受けられますが、ケンのはもっと積極的に自分の気に入るよう、便利なように自然を作り変えていくのを信条としているのでしょう。

彼らとは年に数度、呼んだり、呼ばれたりで食事を共にし、クリスマスの季節には手作りのケーキやクッキーを交換する程度の隣人付き合いをしていました。よく家を空ける私たちの留守の鍵を預けて頼み込むのも彼らにです。

昨年の夏、長い休みから帰ってきて、ケンとヴィッキーに挨拶に行ったところ、彼らは町に越すことに決めたと言うのです。ヴィッキーが癌になり、その手術やその後の放射線治療に通わなくてはならいし、おまけに薬の影響でしょうか、家の中で転び両足を骨折してしまったのです。あれほど気に入っていたこの山の生活をすっぱりと諦め、ヴィッキーのために町の団地に越して行ったのです。

二人にとっては、とても大きな決断だったことでしょう。でも、ケンはそんなこと当然だと言わんばかりで、「いままで二人で作り上げてきた暮らしだし、少しでもヴィッキーが楽に過ごせるところに移るのは当然だよ」と至極軽く受け止めているのに感動してしまいました。

彼らの団地の家もとても立派なもので、家の中はもとよりガレージや玄関への出入り口、庭へもすべて車椅子で移動できるようにバリアフリーというのかしら、緩やかなスロープで繋げ、お風呂、シャワーも障害者用のモノに作り変えていました。「ウーム、ケンはリバース山之内一豊の妻だな。よくそこまでできるもんだ」とウチの仙人盛んに感心していました。

家の中、ガレージ、玄関、風呂場、至るところに監視カメラを付け、ヴィッキーがまた転んだりした時に、即対応できるシステムを配置していました。もっとも、ヴィッキーは、「なんだかいつも監視されているようで、落ちつかないわ」と本音を吐いていましたが…。また、音声ロボットを導入し、ヴィッキーが「たすけて~」と叫ぶと、彼女の声をロボットがキャッチし、彼女の声を増幅し、スピーカーから流し、赤ランプが各部屋に点灯するようにもなっていました。これで、ケンはガレージで彼の趣味である電子器具作りに没頭できる…ことになります。

ケンが作り上げた家のシステムは、アルツハイマーや障害者を抱える人たちにとても役に立つことでしょう。もっとも、相当お金がかかりそうですが…。

何度か彼らの家を訪れました。その帰り道で、ウチのダンナさんも相当年寄りですから、順番で行けば私よりズーッと先にお迎えがくるでしょうから、いかに気に入っているにしても、私一人になって、今の山小屋での生活はできないことを実感しました。

第一、冬を越すための薪切りや薪割りだけでも男の、それもひ弱な都会のオタクではできでない、少しはマッチョの筋肉が必要ですし、チェーンソーやその他こもごもの機械類のメンテナンス、深い井戸からくみ上げるポンプ、その水を貯水湖に貯め、そこから圧力を掛ける別のポンプのメンテナンス、冬に凍結を防ぐために配水管、下水管から水を抜くやりかたなどなど、一応、ダンナさんの教えよろしきを得てマニュアルを作ってありますが、とても越冬など、女手一つでは難しいものがあるのです。

近所の人たち、牧場の人たちに一声掛ければ、皆喜んで来てくれるでしょうけど、他の人に頼らなければ生活できないのは、独自、独立性あってこそ価値がある山の暮らしの基本信条に反するように思うのです。

いずれ私たちも体の自由が利かなくなり、あまり考えたくありませんがここを離れなければならない時がくるでしょう。でもそれまで、ここの自然と静けさを存分に味わい、澄んだ山の空気を肺いっぱいに吸って暮らしていこうと思っています。

-…つづく

  

 

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Grace Joy
(グレース・ジョイ)
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中西部の田舎で生まれ育ったせいでょうか、今でも波打つ小麦畑や地平線まで広がる牧草畑を見ると鳥肌が立つほど感動します。

現在、コロラド州の田舎町の大学で言語学を教えています。専門の言語学の課程で敬語、擬音語を通じて日本語の面白さを知りました。

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