第149回:チャーリーとマリア、そしてリカルドとイザベル その2
チャーリーが亡くなった翌シーズン、チャーリーと相似形といってよいほどよく似た細身のアメリカ人、リカルド(リチャードのスペイン風の呼び方)がチャーリーの店を引き継いだ。私だけでなく、周りの連中は皆、リカルドはチャーリーの弟だと思った。それほど二人の顔、身体つきが似ていた。
リカルドにはイザベルという奥さんがいた。姉妹関係なのはこちらの方で、気品のある美形のマリアとは似ても似つかない、ということはあまり美人でないイザベルとマリアが姉妹であり、チャーリーとリカルドは全く血の繋がっていない、偶然似た容貌を持った、ただアメリカ人という一点だけが共通の義理の兄弟だったのだ。
リカルドは何から何まで義理の兄チャーリーと違っていた。リカルドはアメリカでベテランと呼ばれている退役軍人どころか、兵役拒否のヒッピーだった。大学もシカゴのエリート私立大学、ノースウェスタン大学に行っていたというから、相当なお金持ちであり、学業もソウソウだったのだろう。父親はシカゴで歯医者をやっていた。リカルドはアメリカンアクセントが残っているとはいえ、巧みなスペイン語を話した。彼のスペイン語はボキャブラリーが豊富で、しかも表現力があった。
イザベルはその時、おそらくリカルドと同じくらいの歳周りで、40歳前後ではなかったかと思う。まだ、30歳になったかならないかの歳だった私から見ると、ずいぶん歳上のお姉さん風に見えた。イザベルも英語が達者でバイリンガルだったが、リカルドとの日常会話はスペイン語だった。
Chilli(チリ)は中南米や北米の家庭料理の定番(参考イメージ)
あれだけ人気だったローストチキンの店を続けるものと誰しも思っていた。ところが、リカルドはとても美味しい“チリ”のレシピを知っているし、“チリ”は一旦大きな鍋に作っておくと、それを暖めるだけで提供できる、人手のかからない料理だ…云々と、成功間違いなしの希望的観測をまくし立てるのだった。
ここでアメリカ的料理“チリ”について一筆加えると、“チリ”は西部開拓時代に幌馬車で移動した時、あるいは開拓部落において、乾燥させたビーンズ、主にキドニービーンズ(インゲン豆)にひき肉、そしてスパイスを加えた煮込み料理で、それぞれの地方、家庭で、スパイスの種類、ピリッとする辛味などの量が違うので、100軒の家があれば100種類の異なった味の“チリ”があると言われる田舎料理だ。テキサスのある地方では、肉が安く大量にあるから、豆抜きの、ひき肉だけの崩れたハンバーガーのようなものを“チリ”と呼んでいる。
リカルドは何度か試作品を持ってきた。確かに、小さめのボール一杯であれば美味しく食べられる。だが、スペインでは数多くの豆料理があり、それらは主に前菜としてのスープのカテゴリーに入るものが多い。その上、豆料理はレストランで食べるものではなく、家庭料理、どちらかといえば貧しい家庭で食べるモノと分類されていた…と思う。ましてや、夏の暑い最中に、コッテリとした豆料理を好き好んで食べる人はいない、少ない。おまけに、豆料理はオナラ、ガスを発生させるのだ。
リカルドの意気込みに反して、案の定“チリ”屋は数ヵ月と持たなかった。リカルドとイザベルほど、ショーバイっ気がないというのか、センスのない人間も珍しい。
リカルドには前科があった。彼は皮細工が好きで、皮のサンダル、ベルト、アクセサリーを造り、売っていたことがあった。カジェ・デラ・ヴィルヘン通りにワークショップ兼店舗を持っていたのだ。通りそのものは人の流れも多く、悪くないのだが、リカルドの店は肩幅ほどしかない異常に狭いかつ急な階段を上った2階にあり、一体どこの誰がこんな得体の知れない階段を足首をヒネル危険を冒して登ってくるのだ…と言いたくなるロケーションだった。
おまけに、リカルドのモノは値が張った。スペインは革製品に溢れている。リカルドの製品は工場で大量に生産されている製品の2倍、3倍の値段だった。すべて手造りだから、膨大な時間がかかるのは分かる。だが、それは売る方、造る側の言うことで、それを買い、使う側は眼中にないことだ。リカルドはベルトでも、小さなバッグでも、何と言うのだろうか、レリーフのように模様を打ち出し、仕上がりも綺麗だし、何より丈夫に造っていた。
リカルドが自分の作った革製品を、夜のテキヤ、夜店に出したり、エスカナにあるヒッピーマーケットで売ればそれなりの買い手があったと思う。だがリカルドは、俺は作るのが好きで、しかも良いものを造っているのだから、欲しいヤツは買いに来い、とワークショップ兼店舗で大好きなパンクロックを大音量で聴きながら、コンコンと皮に模様を刻んでいるのだった。リカルドの皮細工、ハンドクラフトの店は、相当な負債を抱えて潰れた。
そして今度、ロケーションは最高なのに、アイデア倒れの“チリ”の店も死期間近になった時、イザベルが妊娠し、お腹が膨らんできたのだ。元々丈夫ではない身体にさらに負担がかかってきて、とてもウェイトレスをこなせなくなってきたのだ。リカルドはスペイン人の出稼ぎ組のお兄ちゃんを雇い、彼をキッチンと言っても、出す料理はすでにでき上がっているのだから、器の大きさ、大か小に盛り、プラスティックのスプーンを差し込み、輪切りにしたバーラ(barra;スペイン風バゲット、棒パン)を3切れ付けるだけの仕事なのだ。
かの若者は、カウンタ-の内側、リカルドが外回り、ウェイター兼キャッシャーで、自作の小さな皮のバッグ、ポーチをタスキ掛けにして、これまた自作の皮のスリッパでパタパタと動き回っていた。リカルドが雇った若者が、知恵遅れの特殊学校出身がスマートに見えるというほどのドが付く超スローモーで、おまけに、彼の手が塞がっている時、たとえ簡単な作業、パンを切るとか、ボールにチリを盛っている時、外のことは一切目に入らない、聞こえないタイプだった。接客業に才能どころか、センスが欠けているリカルドとのコンビは、イビサ・レストラン史上最悪、これ以上、イヤ以下というべきか、有り得ないと噂された。
これからが稼ぎ時という夏場が到来する前に、“チリ”屋は潰れた。
いつも満席だった老舗レストラン『San Telmo』のテラス席
リカルドは最初、チョッと手を貸す程度に、レストラン『サン・テルモ(San Telmo)』のキャッシュレジスター、会計用のコンピューターをセットしてやっていた。コンピューターの可能性を見抜いたのは、むしろ小学校もロクに出ていない『サン・テルモ』のオーナー、イヴォンヌではなかったかと思う。
1日に200食以上をこなす、イビサの老舗レストランに成長しつつあった『サン・テルモ』の仕入れは数多くの業者が入り乱れ、複雑になってきていたし、原価計算もそれにつれて割り切れなくなってきていた。もう、イヴォンヌの勘と経験だけで切り盛りできる規模でなくなってきていたのだ。
自分で極小ながらレストラン、カフェテリアをやってみて分かったことだが、潰れる店の大半はドンブリ勘定が原因だ。日銭が入るからといって、それを握ってカジノやディスコに毎夜走ると、即、危機に陥ることは、身を持って体験した。
イヴォンヌは優れた料理人であり、経営のセンスをも持っていた。リカルドがコンピューターを理解し、いじくり回す能力がある…と見抜き、一つの料理に使う材料、たとえば牛肉のどこ部分何グラム、ソースには生クリーム、付け合せに使う野菜などなど、細かく羅列し、一日の終わりに売上とは別に、一つひとつの料理に使う材料をコマンドボタンを押せば、その日に何皿出て、それに使った材料の総計が出るようにしたのだった。それによって、仕入れの無駄を省き、効率よく台所を切り盛りできたのだと思う。
第150回:チャーリーとマリア、そしてリカルドとイザベル その3
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