鉄道雑学の本を出版させていただくことになった。記事本文に添える写真が必要だ。そこで今回は東京近郊の鉄道の名所を撮影しにいく。旅は自宅最寄り駅でSuicaに5,000円を突っ込むところから始まった。他の仕事の合間を縫い、小雨決行、日帰りの強行軍である。新しく踏破する路線はなく新鮮味にかけるけれど、今日はいろいろな電車に乗れる。知っていていかなかった場所も多い。久しぶりに訪れる場所には再発見するかもしれない。これはこれで楽しみである。
早朝、京浜東北線の某駅から電車に乗り、大井町駅のホームに立つ。最初の一枚はここから東海道本線の上り線を狙う。大阪から夜通し走ってくる寝台急行『銀河』を撮る。ブルートレインブームの生き残り、東京を発着するたった2本のうちのひとつだ。飛行機や新幹線の最終便の後に出発し、初便の前に目的地に着く。最近は夜行バスに押されていると聞くが、ビジネスマンに人気の列車である。
続いてホームを品川方面に歩き、線路脇の青いパイプを撮った。これは東京駅の地下から湧き出した水を、品川区の立会川に放水するためのパイプだ。ドブ川だった立会川はこれで浄水された。何年か前に立会川ではボラが大量に遡上して話題になった。その功労者がこのパイプだ。
地下鉄の踏切。
京浜東北線で北へ向かい、上野駅で降りる。構内をくねくねと歩いて入谷口を出る。正面に鉄道員養成で知られる岩倉高校がある。しかし今回の目的地はここではない。上野のバイク街を通り抜け、昭和通りを渡ったところに珍しい施設がある。地下鉄の踏み切りだ。東京メトロ銀座線の車庫が地上にあり、地下からの連絡線が通じている。その車庫の入り口を道路が横切っているため踏切がある。せっかく踏み切りの写真を撮るからには、電車が渡っている姿が欲しい。だから朝の出庫時を狙った。すでに踏み切り手前で電車が待機しており、ほどなく警報機が鳴りはじめた。シャッターを押す。順調である。
上野から常磐線で北千住へ。東京メトロ日比谷線を撮りに行く。営団から東京メトロに改組され、電車に貼られた社章が変わった。営団時代に北千住駅のホームで日比谷線の顔を撮った写真があるので、同じアングルでもう一度撮ろうという魂胆だ。ラッシュとは逆方向の電車を降り、地上3階の日比谷線ホームに入ると、大勢の通勤客で溢れ返っている。なにか事故でもあったのかと思うほどだが、何もアナウンスがないところを見ると、これが常態なのだろう。ガラガラの電車の扉が開き、ギュウギュウ詰めに人々が押し込まれる。これを毎日繰り返して通勤する人を私は尊敬しなくてはいけない。
電車の顔を撮ろうと最後尾に向かう。なんとなく雰囲気が変わり、香水のにおいが強くなる。見渡せば女性ばかり。うっかり女湯の扉を開けてしまったような気まずさを感じた。日比谷線は北千住寄りの最後部車両が女性専用になっていた。通勤時間帯に乗らないから気づかなかったけれど、これはこれで圧巻だ。カメラを向けるとあからさまに嫌な顔を向ける人がいる。「アンタを撮りに来たんじゃない」と心の中で反論しつつ、早々に退散する。
大混雑の北千住。
その日比谷線に乗る気力がなかったので、私は地下に降りて東京メトロ千代田線に乗った。ここも相当な混みようだった。霞ヶ関でようやく身体が動くようになった。ここで丸の内線に乗り換える。東京駅で資料写真を撮り、続いて有楽町で新幹線と通勤電車の並ぶ写真を撮る。いいタイミングで両者が並ばないため時間を使う。1時間を越えないようにしたい。ちょっとの間なら趣味の写真撮りだが、山手線の運転士が2週目に同じ駅で私を見かけたら不審に思うだろう。
東京という盤ですごろくをしているようだ。さらにひと駅進んで新橋で降りる。再開発された汐留エリアは旧国鉄の汐留貨物駅だった。そのルーツは旧新橋駅である。明治5年に新橋-横浜間で日本初の鉄道が開業した。その当時の新橋駅舎が復元されている。裏手には1面2線のホームと線路も作られているが車両の展示はない。駅舎の内部は鉄道開業当時をしのばせる博物館と飲食店が入っている。その駅舎の全景を撮りたいが、前庭の植木が建物を巧みに隠してしまう。道路の対岸に渡り、道路工事の作業車が入らないように撮った。
JRを新宿駅で降りて小田急線ホームへ。10時過ぎにJR東海の特急電車がやってくる。特急あさぎり号。小田急線、JR御殿場線経由で新宿と沼津を結ぶ列車だ。1日4往復のうち、2本が小田急の電車、2本がJR東海の電車である。JR東海の電車はなんとなく東海道新幹線を連想する色で塗られている。本ではJR東日本のお膝元へこっそりやってくるJR東海の電車、というふうに紹介した。
小田急の改札を出ようとしたら改札口の扉が閉まった。機械のほうに"乗車駅下車"と表示されている。出るときは入場券扱いになるかと思ったら、IC乗車券のエラーとなってしまった。不正乗車だと思われるのも癪だから下北沢で乗換えて京王井の頭線で吉祥寺に向かう。井の頭線の沿線は植栽が美しいので、私の好きな路線のひとつだ。ちょうど今は紫陽花が満開だ。沿線の人々が手入れをしているのだろう。
小田急新宿駅に現れるJR東海の電車。
吉祥寺から東京方面に戻りつつ、いくつかの駅で降りて線路を撮る。中央線を地図で見ると、中野から立川まで一直線に描かれている。この付近は本州最長の直線区間と言われている。しかし、実際にファインダーを覗くと、実はかなり曲がっていた。建設当初は一直線だったかもしれないが、複線化、複々線化、高架化するうちに、少しずつ線路がズレている。本では一直線、一直線と何度も書いた。これはちょっと微妙だなと思う。あとで原稿見直さなくてはいけない。
天気予報では早朝まで雨、その後は晴れだった。しかし、小雨だった空からは大粒の雨が降り始めた。本で使う写真は白黒なので、雨の陰影がノイズのように印刷されてしまう。天気予報は外れたかもしれない。いや、きっと晴れる。これが最後の通り雨だと信じたい。
訪問順序を変更して、この雨の間に長距離移動しておく。中央線の最新型の電車で東京駅へ向かった。銀色の通勤電車が増える中で、中央線快速はオレンジ塗装を維持していたが、ついに世代交代が始まった。
中央線。
空調の効いた車内は快適だ。車掌は若い女性だった。きびきびとした動作、真剣なまなざしが清清しい。こういう女性の表情を久しぶりに見た。そういえば鉄道現場の女性進出の話は書かなかった。日本初の女性車掌は秋田内陸縦貫鉄道の急行「もりよし」で誕生した。当時私は彼女が働く列車に乗った。しかし、彼女の日本初は"戦後の"という但し書きがつく。戦時中は男性が戦地へ駆り出されたため、東京の地下鉄などでは女性の運転士や車掌もたくさんいたらしい。しかし、戦争が絡んだ話はなんとなく書きづらかった。
東京駅で京浜東北線に乗り換えた。次の目的地は横須賀である。
-…つづく
第198回~ の行程図
(GIFファイル)