第87回:通った店 出会った人々(3) 更新日2006/12/14
私が、何年も「常連客」として最後に通い続けた店は『松翁』と言って、中目黒駅近くの目黒川沿いにある居酒屋だった。22歳から26歳くらいまでのことだったと思う。
この店を紹介してくれたのは、先の「一斗樽」で知り合った、ブルース・ギタリストのHさんという人だった。彼は、中目黒にある私のアパートのすぐ近くの、当時としては少しお洒落な感じのするアパートに彼女と住んでいた。というよりも、彼女が住んでいたアパートに転がり込んでいたという方が正確な表現だ。
痩せてはいたが、身長は185㎝を越えるだろうという大きな体躯で、髪の毛も髭も伸ばし放題という「巨大な仙人」のようなHさんに比べ、彼女の方は150㎝を2、3㎝越えたくらいの小柄な、人なつこい感じではあるがなかなかの美人だった。確か博多美人だったと記憶している。
Hさんは、関西のブルースバンド「W・R」のリード・ギタリストと言うことで、「一斗樽」の店内で何度もその演奏を聴かせてもらったが、実に上手なものだった。いつの間にか、Hさんと私と彼女は、連れだっていろいろなところへ飲みに行くようになった。
阿佐ヶ谷や高円寺のライブハウスで、Hさんは何人かの関西系で有名なミュージシャンに私を会わせてくれたりもした。「受験生ブルース」を作詞したNさんは、以前からあこがれの人だったので、Hさんに紹介されたときは緊張して、「フォーク雑誌『GUTS』」に載ったのと同じ顔をしている」と、馬鹿なことを思ったものだった。
Hさんは、どこでも屈託なく酒を飲み、その店にギターがあれば、他の客の求めに応じて出し惜しみすることなく、そのスーパー・テクニックを披露してくれた。ただ、ちょっと不思議なところがあって、店によっては、「自分をHだと話してもいいよ」と言ってみたり、「K君、この店では僕をHだと言わんといてくれ」と言ってみたりした。
ある時、私の後輩が音楽雑誌を持ってきて、「Kさん、ここに出ているブルースバンド『W・R』のHって、あのHさんと全然顔が似ていませんよね」と言ってきたことがあった。雑誌を見せてもらったが、そこに写っているのは私の知るHさんとは明らかに別人だった。誤植ではないかと他の紹介写真も見たが、結果は同じだった。
そのうちに、「一斗樽」の飲み仲間の中では、「彼はニセHだ」というウワサが広まり、私はHさんとは会いにくくなってしまった。私がしばらく連絡を取らないでいると、ある日Hさんの方から、「中目黒駅のそばの『松翁』という店で飲んでいる。『一斗樽』よりずっと落ち着く店だから、K君今から飲みに来ん?」という電話が入った。
私が初めてその店を訪ねていくと、Hさんは快活に他のお客さんと談笑していた。しばらく私も飲み続けていたが、そのうちにどうしても確かめたくなって、彼に真偽のほどを聞いてしまった。少し気まずい雰囲気の沈黙の後、Hさんは、「それで、K君はどう思うねん」と逆に聞いてきた。私は「正直、よく分からんのです」と答えた。
「どっちでもええことや」とHさんは言ったきり、もうその話題に触れなくなってしまった。かなり飲んでから別れたが、その日を限りに私はHさんと会うことはなくなった。
阿佐ヶ谷、高円寺界隈でも「Hちゃん」と呼ばれていたし、紹介されたミュージシャンは間違いなく本人たちだった。でも、彼自身は自称していた「W・RのH」ではなかったのだ。あれから28年たった今でも、合点のいかない不思議な話である。
私は「松翁」という店がとても気に入ったが、Hさんが飲んでいるのではないかと案じ、少し足を踏み入れなかった。しばらく経って店を訪れると、マスターは私の顔を覚えていてくださった。Hさんのことを訊ねると、「あれからいらしてませんね。もう見えないんではないですか」という答えが返ってきた。
私は、それから週に2、3回は通う常連客になった。家の近くにあった「一斗樽」がかなり離れたところへ店を移してしまったのも、その原因の一つだった。
マスターは、私とちょうどひとまわり違いという話だったので、初めてお会いしたときは34、5歳だったように思う。割に小柄で線の細い、どちらかと言えば女性的な感じのする方だった。冬はいつも赤いセーターを着ていて、それがよく似合っていた。
以前から島倉千代子の大ファンで、よく新宿コマなどのリサイタルを聴きに行っていた。店にも彼女のレコードが何枚か置いてあってよくかかっており、マスターは興が乗ると、扇子をマイク代わりにして、「それでは、お千代さんとデュエットいたします」と言っては歌い出すこともあった。伸びやかな、よい声の人だった。
マスターのお父さんも魅力的な方だった。その親子は養子縁組をしており、血のつながりはなかった。お父さんはかなり高名な三味線のお師匠さんで、終始穏やかな表情で山の手の江戸弁を話されていたが、芸事の上に立つ方らしく、眼の奥には厳しい光をたたえていた。
一階が店舗で、父子二人は二階の部屋に住んでいた。お父さんは、いつもは出掛けた先から帰ると、「みなさんごゆっくり」と二階に上がってしまうのだが、ほんの時々、店で一杯だけ付き合ってくれることがあり、私はそれがとても楽しみだった。
「不思議なものですよ、三味線の皮というのは。若い猫ではまだ音に艶が出ない。ちょうど妙齢の年増の猫から作ったお三味は、それは色っぽい音色を鳴らすようになるのです」。
そう言ってお猪口を口に運ぶお父さんの仕草も、実に色気のあるものだったのだ。
第87回:箱根駅伝を観て