■くらり、スペイン~移住を選んだ12人のアミーガたち、の巻

湯川カナ
(ゆかわ・かな)


1973年、長崎生まれ。受験戦争→学生起業→Yahoo! JAPAN第一号サーファーと、お調子者系ベビーブーマー人生まっしぐら。のはずが、ITバブル長者のチャンスもフイにして、「太陽が呼んでいた」とウソぶきながらスペインへ移住。昼からワイン飲んでシエスタする、スロウな生活実践中。ほぼ日刊イトイ新聞の連載もよろしく!
著書『カナ式ラテン生活』。


第1回: はじめまして。
第2回: 愛の人。(前編)
第3回: 愛の人。(後編)
第4回:自らを助くるもの(前編)
第5回:自らを助くるもの(後編)
第6回:ヒマワリの姉御(前編)
第7回:ヒマワリの姉御(後編)
第8回:素晴らしき哉、芳醇な日々(前編)
第9回:素晴らしき哉、芳醇な日々(後編)
第10回:半分のオレンジ(前編)
第11回:半分のオレンジ(後編)
第12回:20歳。(前編)
第13回:20歳。(後編)
第14回:別嬪さんのフラメンコ人生(前編)

■更新予定日:毎週木曜日




第15回: 別嬪さんのフラメンコ人生(後編)

更新日2002/08/01 

アミーガ・データ
HN:K
恋しい日本のもの:『お風呂』『雑誌』
『テレビのバラエティ番組』

1986年、ときは東西冷戦時代。旧ソ連上空の飛行が禁止されていたため、日本-ヨーロッパ間はアジア各都市を経由する南回りルートが主流。Kの乗り込んだルフトハンザ便も、成田からバンコク、ドバイ、フランクフルトと経由し、20時間以上かけて目的地マドリードへ到着した。

最初の1週間はフラメンコ教室のツアーで、フィエスタ(パーティー)などを体験。次の1週間は、フラメンコの本場セビージャ(※)に滞在した。「これは、またここに帰ってくるな」 漠然とそう感じながら、日本へ帰国。


そして予感どおり、翌年秋、1年間の予定でセビージャへ。3ヶ月後の大晦日に、日本の実家に電話したときのことが忘れられない。言葉もわからず、初めての友人との共同生活も破綻した当時。考えてみると、それまで日本では親元に居て、とくに苦労をしてきたことはなかった。電話を切ったあと、バルで号泣した。ウェイターが声をかけ、慰めてくれたり、おごってくれたりした。涙が、止まらなかった。

だがこの頃を境に、Kは強くなる。学生時代の友人に「怖い」と泣かれるほど、強くなった。いまの彼女には、本人が「暗くておとなしい奴だった」と振り返る当時の面影は、ない。


フラメンコの本場、太陽輝くアンダルシアの中心地が、セビージャ。スペイン三大祭りのひとつであるフェリア(春祭り)が行われる頃にはKの語学力も上達し、友人もできるようになった。そのうち、知人を通じて、ひょいと来日するフラメンコアーティストの通訳を頼まれた。自分も勉強させてもらうからと無料で引き受け、契約のアレンジなどの仕事を覚えた。


同年、さっそく正式にコーディネーターとしての依頼が入る。Kの仕事デビューの相手は、フラメンコ・ダンサーの重鎮アントニオ・カナーレスや、ニュー・フラメンコミュージック界の旗手KETAMA。フラメンコファンなら失神しかねないほどの、そうそうたるメンバーである。その後もフラメンコに熱中するきっかけとなったアントニオ・ガデスやパコ・デ・ルシア、またフラメンコギターの革命児ビセンテ・アミーゴ、現在ナンバーワンのスパニッシュダンサーといわれるホアキン・コルテスなど、セビージャを拠点として、数多くのアーティストが来日する際の通訳やコーディネーターなどを担当する。当初1年間を予定していた滞在は、16年目になった。


スペイン、そしてジプシー。どちらの要素をとっても、物事をキチンキチンと進めようとする日本の習慣とあまり噛み合わない。最初は予定通りに進んでくれないスペインサイドに怒っていたけど、やがて融通のきかない日本サイドの対応にも不満を感じるようになった。レストランで、ステーキをソースではなく塩だけで焼いてくれと頼んでも、メニューにないからと断られる。同じ理由で目玉焼きひとつすら作ってくれなかったこともある。その時は、「いくらでも払うのに」というアーティストとの間で困惑した。


でも、仕事は楽しい。KETAMAのメンバーから買い物で値切ってと頼まれたときは、場所が大阪だからなんとかなった。そしたらギターを買ったのが嬉しくて大丸の前で弾きながら歌いはじめたのには笑っちゃった。集合時間は常に30分サバを読むようにしてるのだけど、アントニオ・カナーレスが、空港へ出発する時間になっても来ない。ホテルに行くと風呂あがりで、鏡の前でヘアスタイルなんか整えてる。愕然。そういえば他のアーティストのときはもう完全にアウトだと思って空港に行くと、搭乗予定のイベリア航空(スペインの会社)の出発がいつものように大幅に遅れていて間に合った、両方ともスペインならなんとかうまくいくのかもね。……大きな目を輝かせて、たくさんの楽しいエピソードを聞かせてくれる。


通訳の仕事は好きで、ふだんテレビを見ながらも同時通訳をして遊ぶほど。仕事とするフラメンコ雑誌の特派員、公演プログラムやビデオの解説など、どれも小さい頃から好きだった舞台に関わる仕事であり、しかも愛するフラメンコのこと。それに、飾らずふつうに接してくるアーティストたちと、フラメンコのオタクな話で盛り上がれるのも楽しい。「こうやってフラメンコに関わって食べていけてるなんて奇跡」、本当にそう思う。


そんなKの座右の銘は、「身を委ねる」。自分たちの力や考えだけでどうにかなるようなことではないもの、大きな力や流れがあるから、じたばたせず身を任せるべき。「がんばりすぎない方が良い」、それが彼女の考えだ。

とはいえ、もちろんKがなにもしなかったわけではない。話を聞くと、与えられた場所で、すべきことをちゃんとしてきている。だから、周囲のひとや運が新たな場所へ導きあげてくれた。その繰り返しの先に、奇跡的に楽しく素晴らしい今日があるのだ。……これが、揺るぎない自信に支えられて輝く彼女を知る私の、「身を委ねる」の解釈だ。


スペインが、好き。赤い口紅ひとつ引いたら、必ずどこからか「よっ、美人!」と掛け声がかかる。「ババァになっても枯れずにいられる」「活き活きと生かしてくれる」、そんなところがたまらなく好き。

セビージャが、好き。太陽の光が輝きあふれる街。先日はじめて鹿児島に行ったとき、似ていると思った。空気も澄んでいて、木々の梢もくっきりと目に映る街。

フラメンコが、好き。あの「これはいったい、なんなんだろう?」の答えのひとつは、12拍を基本とする「ノれない」リズムだった。それに、舞台としてのインパクトの強さ。生のものが伝わってくるかんじ。知れば知るほど、楽しみも増えてくる。

友達が、好き。女同士、男女間を問わず、人間関係が濃い。本当に困ったときには何かしてくれる、そんな仲間がたくさんいる。ついつい貯金の額が増えると不安になって、お金のない仲間に奢ったりしてしまうのだという。もちろん、その逆の立場にもなってきたからだ。

そして。「人間が、好き」 インタビューの合間に、そう口にした。そういえばスペインも、フラメンコも、とことん人間くさい。


ところでインタビューの前週のこと、私は思いがけなくセビージャを訪れたのだが、これまた思いがけなく現金が不足して彼女に「助けてー!」と電話した。インターネット上では仲が良くとも実際には1度、ほんの2時間ほどしか会ったことのない私のために、彼女は食事を中断してすぐタクシーで駆けつけてくれた。

「こういうときはお互いさまだから」 ふつうの顔をしてそう言って、後日一切お礼を受け取ろうとしなかった彼女の姿に、クラッときた。

強い、優しい、どっしりと温かい。私はフラメンコはよく知らないのだけれど、どうもKの姿と共通する部分があるような気がする。少なくとも、与えられた人生の舞台を全身全霊で生きる彼女の姿は、とても輝いていて、めちゃくちゃに格好良い。だから私は友人という客席から、舞台の彼女に掛け声をひとつ。オーレ、グアパ!(よっ、別嬪!)

(※)「セビージャ」は、いわゆる「セビリヤ」のこと。現地発音では前者が近い。

 

 

第16回:私はインターナショナル。(前編)