仕事でもなく、遊びでもない、なんともモチベーションに欠ける用事で長野県上田市にやってきた。夏なら信州の爽やかな風に癒されただろうけれど、2月は真冬で時期も悪い。そんな気分だから用事も後味の悪い形で終わり、忙しいフリをして早々に引き揚げた。こんな気分を癒す特効薬は鉄道の旅しかない。私は新幹線上田駅の改札前を素通りして、上田交通別所線の切符を買った。上田交通が無ければ、私は今日、ここに来なかったかもしれない。
上田交通別所線は長野新幹線/しなの鉄道の上田駅から南西に延び、別所温泉駅に至る、総延長11.6kmの小さなローカル線だ。いまでこそ小さくまとまっているけれど、上田交通の歴史は古く、創業は1919(大正8)年。地元の製糸産業の隆盛とともに路線を延ばし、4路線48kmの路線網を持っていた。地方私鉄としてはかなり大規模だ。しかし戦後の高度成長期、自動車の普及に伴って次々と路線が廃止されていく。この別所線も1973(昭和48)年に廃止されかけたが、別所温泉の旅館組合を中心とした存続運動が自治体を動かした。別所線は3年間の補助金を獲得し、その間の営業努力と存続運動によって赤字が大幅に減った。かくして別所線は生き残った。
行程図。
平日の夕方。近代的な高架駅は閑散として、改札を通り抜けるまで誰もいなかった。下校時刻より少し早く、退勤時刻までは間があるから、乗客は病院帰りか買物帰りの人ばかり、というわけだ。ホームには懐かしい銀色の電車が停まっている。東急電鉄から譲り受けた7500系というステンレスカーだ。かつては東横線の花形で、急行列車に起用された時期もある。それが今は単線のローカル線で余生を送っている。そういえば豊橋鉄道もこの車両だった。7500系はたくさん作られたので、今も東急多摩川線や池上線に残った仲間もいる。東急電鉄のヒット商品だと言えるかもしれない。
どこから乗ればいいんだろう?。
ホームに人がいないと思ったら、乗客達はすでに車内にいた。2月の信州は寒いし、高架駅だから風に晒される。私も車内に入ろう、と思ったが、開いている扉がない。寒いから一部のドアしか開いていないのだ、とホームの先まで行ってみたけれど、扉はどれも閉まっている。どこかのボタンを押せば開くのだろう、と探してみても見つからない。乗客達は不思議そうにこちらを見ている。あの人たちはどこから入ったのだろうか。ホームの壁に電車の乗り方が書いてあるかと探してみても、観光案内と広告しかない。
発車の時刻が近づくと、改札口の方向から女学生が現れて、ドアをこじ開けて車内に入った。なんのことはない。重い扉を力ずくで開ければいいらしい。日常生活で利用している人には常識だろうけれど、旅人には優しくないシステムだ。別所温泉の入口が、遠方からの来客に不親切でどうする、と愚痴を言いたくなってきた。そもそも、今日の旅は不機嫌な気分で始まっている。
電車は高架区間をスルスルと進み、左へカーブすると大きなトラス型鉄橋で千曲川を渡る。上田市のシンボルにしてもいいくらいだ。真っ赤な折れ線に挟まれて、異次元の空間にいるようだと思ったら、それが市街地と郊外の変わり目のようであった。細い路盤の周りは民家が並んでいるけれど、その佇まいが静かすぎる。線路には方々に雪が積もっており、荒涼とした風景が続いている。
千曲川を渡る。
車窓から民家が途絶えることはなく、人の多いところを走っている。乗って残そうという運動が実りやすい地域だ。それでも、別所線は1921年の開業以来、一度も黒字になっていなかったという。不動産、バス、ホテルなどの多角経営で、鉄道はなんとか支えられてきた。そんな健気な地方私鉄に、再び廃止騒動が起こった。
2003(平成15)年、国土交通省は全国の私鉄に対し、安全性の緊急点検を実施する。その結果、別所線は線路や踏切の改良、車両の更新が必要であると指摘された。その対策費は年間1億円以上。赤字路線、自動車社会、少子化傾向という時代、その投資は企業として受け入れがたい。「なんとかしてほしい」と上田交通は上田市に援助を申し出た。それを受諾するか否か、否なら廃止であった。
旅館組合と沿線住民による存続運動が活発になり、上田市も対策プロジェクトをスタート。鉄道が地域にもたらす経済効果を算定した結果、廃止より存続を選んだ。2004年末に財政支援が決定する。赤字になるたびに自治体から支援を受け、設備投資も自治負担というなら、これはもう市営鉄道だ。上田交通としては、存続させるなら別所線ごと上田市に引き取ってもらいたい、が本音だろう。
電車は赤坂上駅から国道143号線に沿って走る。私にとっては懐かしい道だ。私は学生時代を長野県松本市で過ごし、上田に向かうときはポンコツ軽自動車でこの道を行き来した。学生ですらなんとかしてクルマを手に入れて生活する、そんな土地柄である。国道との併走は隣の上田原駅まで。線路はここからぐいっと南へ曲がる。
大学前、という駅がある。近くに私立の大学と女子短大がある。若い女性たちが降りていく。別所線は通学の足として機能している。温泉へ向かう観光路線という印象があったけれど、実態は生活路線で、観光客の割合は1割ほどだという。これを少ないと諦めるか、増やす余地があると見るべきか。韓国のドラマがブームになり、ただ美しいだけの並木道が観光客であふれているという。箱物を建てなくても、人を呼ぶアイデアはありそうだ。富良野だってドラマが放送されるまでは秀でた観光地ではなかった。
下之郷駅に電車の留置線がある。私が乗っている電車と同じ元東急のステンレスカーが停まっていた。下半分が黒く塗られて、窓のひとつがカッティングシートで丸く切り取られている。レトロとモダンを折衷した、新しい"丸窓電車"である。上田交通のシンボルとして、先月から走り始めた。先代の丸窓電車は1927(昭和2)年から半世紀以上走り続けた。昭和レトロの外観で、特徴は一部に円い窓を配していたこと。機能重視の工業デザインのなかに、ちょっとした遊び心がある。豊かな時代の到来を象徴したものだ。
新しい丸窓電車がいた。
丸窓電車は人気があり、全国の鉄道愛好家が撮影に訪れた。しかし老朽化により19年前に廃止された。別所線は唯一の観光資源を失ってしまった。その後は親会社の東急から旧型車の譲渡を受ける方針に変わる。丸い外観でカエルの愛称を持っていた5000系、その派生車種で東急初のステンレスカー5200系が走っていた頃は、東急の車両博物館としてファンを維持できた。しかし7500系はいけなかった。車両としてよく出来すぎていたために、全国に転出し、東急本体にも残っている。珍しい電車ではなくなった。
このままでは鉄道ファンからも見捨てられてしまう。なにか名物がほしい、そう考えた上田交通は、7500系を無理矢理に塗装して、新しい丸窓電車を仕立て上げた。しかしどう見ても妙ちくりんな姿である。手作りで名物を作らざるを得ない気持ちは痛いほど分かるけれど、風情のないまやかしの産物だ。この電車が注目されるには、全国の同形車両が廃止されるまで待たなくてはいけないだろう。
元祖丸窓電車は終着駅の別所温泉に留置されていた。やはりこちらのほうが風格がある。せめて新車の足回りにこの車体を載せられたらよかったのに。もっとも、サイズが違うのだろうけれど。
元祖丸窓電車。
別所温泉駅の佇まいはまさにレトロ。木製の駅舎、細い柱が並ぶホーム、夕暮れの落ち着いた明るさも相まって、懐かしい時代にタイムスリップとしたような気持ちになる。旅館の出迎えのクルマが数台いて、お客を呼ぶ声がする。まだこんな風景があったのか、と思う。○○様ですか、と私を呼び止める人がいる。旅館の人だろう。違うと言うと一礼して、また別の人に声をかけている。
束の間の雑踏が終わると、駅は急に静かになった。私は乗ってきた電車を見送って、しばらく駅周辺を散歩するつもりだ。次の電車まで約30分。案内図を眺め、街の外れにある古い寺へ歩き出した。
別所温泉駅。
第94回の行程図
(GIFファイル)
2005年2月8日の新規乗車線区
JR:0.0Km 私鉄:11.6Km
累計乗車線区
JR(JNR):15,864.9Km (69.67%)
私鉄:3,356.1Km(51.34%)
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