第284回「流行り歌に寄せて No.94 「巨人軍の歌?闘魂こめて」?昭和38年(1963年)
先日、私の所属する組合での会合が福島市であった。福島県には勤め人時代、浜通りには仕事で、会津には旅行で行ったことがあったが、中通りには今まで一度も訪れたことがなかった。
新幹線を降りた福島駅の構内で一枚のポスターを見かけた。「福島市古関裕而記念館」のもので、福島駅からバスで3分くらいにあるという。私は会合のあった翌日、東京に戻る前に時間を作り、入館する機会を得た。
古関の仕事場を再現した部屋や、数々の楽譜、レコードなどが陳列された大変貴重な資料館だった。仕事場にはピアノなどの楽器はなく、3台の座卓がコの字型に配置され、それぞれに譜面が置かれていて、忙しい時は3曲をパラレルで作曲していたことを物語っており、これには感動を覚えた。
彼は福島市の中心部にある大町の呉服屋の長男として明治42年(1909年)に生まれ、昭和5年に21歳で上京するまで、ずっと福島の地で過ごしてきたことも、そこで初めて知った。
今回、せっかくのタイミングなので彼の作品について触れてみようと思って年譜を確認したところ、昭和38年5月に『巨人軍の歌?闘魂こめて』が発表されていることが分った。流行り歌というのとは少し性格が違うが、いわば適時打を放ちたいという思いで、飛び入り参加させていただくことにする。
「巨人軍の歌?闘魂こめて」椿三平:作詞 西條八十:補作詞 古関裕而:作曲 守屋浩 三鷹淳 若山彰:歌
1.
闘魂こめて 大空へ
球は飛ぶ飛ぶ 炎と燃えて
おお ジャイアンツ
その名担いて グラウンドを
照らすプレイの たくましさ
ジャイアンツ ジャイアンツ
ゆけ ゆけ それゆけ巨人軍
2.
嵐を雲を つんざいて
球は呼ぶ呼ぶ 勝利の星を
おおジャイアンツ
その名と共に あすの日へ
伸びるチームの 勇ましさ
ジャイアンツ ジャイアンツ
ゆけ ゆけ それゆけ巨人軍
3.
かがやく歴史 かさねつつ
球はゆくゆく 無敵の天地
おお ジャイアンツ
その名を高く いや高く
あげるナインの たのもしさ
ジャイアンツ ジャイアンツ
ゆけ ゆけ それゆけ巨人軍
『巨人軍の歌』という、読売ジャイアンツの球団歌は実は3曲あって、最初に作られたものは、戦前の昭和14年の通称『野球の王者』というタイトルの曲。佐藤惣之助:作詞 西條八十:補作詞 古関裕而:作曲 伊藤久男:歌。次が戦後に入って昭和24年に通称『ジャイアンツ・ソング』というものが作られた。岡野青志:作詞 藤浦洸:補作詞 米山正夫:作曲 藤山一郎:歌。
そして、3曲目が今回の通称『闘魂こめて』。だから古関は2回作っていることになる。さらに、最初の『野球の王者』が作られる3年前の昭和11年には『大阪タイガースの歌』(現在では阪神タイガースの歌)あの有名な、通称『六甲颪』を、同じく佐藤惣之助と組んでタイガースに提供しているのである。歌は中野忠晴。
また、最近低迷が続く、我が中日ドラゴンズの『ドラゴンズの歌』小嶋情:作詞 サトウハチロー:補作詞 伊藤久男:歌、並びに『私のドラゴンズ』田中順二:作詞 藤浦洸:補作詞 安西愛子:歌という曲も、昭和25年に作っている。今回聞いてみたが、そう言えばまだ『燃えよドラゴンズ』ができていなかった頃の中日球場で『ドラゴンズの歌』が流されていたことをうっすらと覚えていた。
ライバル同士への曲の提供はプロ野球のみならず、早稲田大学の『紺碧の空』慶應義塾大学『我ぞ覇者』という有名な曲の他にも、明治大学、中央大学、日本大学他多くの応援歌も提供している。
私は以前に何回も、このコラムで古関の歌謡曲を取り上げたが、私にとっては、スポーツの曲のイメージがやはり一番強い。上記の他に一般的に知られている曲だけでも、夏の甲子園のテーマ曲『栄冠は君に輝く』、NHKのスポーツ中継テーマ曲『スポーツショー行進曲』、そして何と言っても極め付けは、東京オリンピック『オリンピック・マーチ』。『日本のスーザ』『日本のマーチ王』という呼ばれ方も、心から頷けるのだ。
さて『闘魂こめて』だが、この曲が作られた昭和38年、優勝した読売巨人軍、長嶋茂雄を主演にこの年に作られた東宝映画『ミスター・ジャイアンツ 勝利の旗』の中の、優勝祝賀パーティーのシーンで、当時のジャイアンツの選手と東宝のスターたちによって歌われている。
服部良一(この映画の音楽担当)の指揮により、アイ・ジョージが歌い始め、続いて長嶋茂雄、川上哲治、広岡達朗、藤田元司、国松彰、王貞治、柴田勲の巨人軍選手・監督、そして宝田明、仲代達矢、香川京子、新珠三千代、草笛光子ら豪華なスターたちが一斉に歌い出すのである。
なかなかの圧巻である。当時23歳の王選手が、拳を作った手を振りながらリズムを取っているのが微笑ましい。
また、この曲がテレビ・アニメ『巨人の星』の第1話『めざせ 栄光の星』で長嶋茂雄の入団記者会見会場のシーンのBGMとして流されているが、長嶋の入団決定は昭和32年であるから、この時期にはまだ作られておらず、実際にはあり得ない。時代考証は行なわれた上で、イメージ・ソングとして使われたものだろう。
-…つづく
第285回:流行り歌に寄せて
No.95「長崎の女〈ひと〉」?昭和38年(1963年)
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