第548回:冬季オリンピックの人気者
平昌オリンピックが開催されます(2018年2月9日から2月25日までの17日間)。冬季オリンピックはIOC(国際オリンピック委員会)が主催してくれる都市を必死になって探していますが、なかなか開催してくれる都市が見つからないのが実情のようです。というのは、早く言えばお金がかかりすぎ、ペイオフしない(=採算がとれない)からです。あまり人気がないうえ、採算をとるのが難しく、しかも雪不足の冬季オリンピック候補地は、泣きっ面に蜂の状態のようなのです。
暖冬異変のためどこも雪不足で、雪山賛歌や雪やコンコンなどと歌っておられず、莫大なお金をかけたスノーメーカー(造雪機)でゲレンデを作っても、気温自体が高いので、お汁粉状のグシャグシャ雪になってしまうのだそうです。地球温暖化が冬季オリンピックを潰しかねない状況となっています。
今年は特に酷く、私たちの町に一番近いスキー場、パウダーホーンは1月の中旬に1週間も閉鎖してしまいました。
Time誌に載ったアルプスの記事(2017年12月11日付)、写真はとても悲惨でした。幅5メートルから10メートルほどの白い人造雪のベルトが岩の飛び出た瓦礫の上に載っているだけなのです。誰が狭い帯状の人工コースで滑りたいと思うものですか。
とは言っても、冬季オリンピックは数々の英雄、アイドルを生んできました。私にとって、なんと言っても忘れられないのは、1988年、カルガリー・オリンピックのスキージャンパー、エディー・ジ・イーグル(Eddie The Eagle)です。本名はマイケル・エドワーズというイギリス人の左官屋さんです。
彼は子供の頃から膝関節の障害を持ち、おまけにド遠視で、とてもスポーツのできる身体ではなかったのですが、どんな種目でもいいから、なんとしてでもオリンピックに出たいという意思が強く、イギリスであまり盛んでなく、かつレベルが低いのでエントリーされる可能性があるスキーのジャンプに挑んだのでした。
それが、20歳を過ぎてからのことで、イギリスにオリンピッククラスのジャンプ台などありませんから、ドイツのスキー場、ガーミッシュのレストランに住み込んだり、アメリカへ行き、往年のジャンパーの指導を受けたりで、15メートル級の子供用のジャンプから始め、40メートルへと進み、転倒し続け、骨折したり、脳震盪を起こしたり、鞭打ち症になったりしながら、ヨーロッパのシニアジャンプ大会で70メートルのジャンプ台で、彼にとっては最長不倒距離である34メートルを転ばずに飛んだのです。
エディーには数多くのハンディキャップがありました。まず、一升瓶の底のような分厚いメガネを掛けなければならず、それがゴーグルの下で往々ににして曇ってしまうのです。もう一つは体重で、オリンピックにエントリーしたジャンパーの中で一番重い82キロもあり、2番目に重い選手より9キロも重かったのです。そして、ジャンプを始めたのが20代の半ばになってからの超遅いスタートだったことです。スカンジナビアの選手は5、6歳から跳んでいますから、20代のそれも半ばからでは、絶望的に遅いのです。
エディーの飛び方は今のジャンパーたちの深い前傾姿勢とは異なり、空中で両手をヒラヒラと扇のように広げバランスを取るのです。その様子を鷲=イーグルに皮肉をこめて喩えられ、彼のニックネーム“エディー・ジ・イーグル”と呼ばれるようになりました。
古いフィルムを見ると、あんな派手に転んでよくぞ生きていたものだと思います。それでも、あきらめずにまた飛び続けたのはガッツを通り越して、精神に異常をきたしているのではないかとさえ疑いたくなるほどです。
当時、オリンピックのの70メートル級ジャンプの最低参加基準は61メートルでした。エディーはヨーロッパ・サーキットに参加し、43メートル、そしてついに61メートルを飛んだのですが、それは練習の時で本番では転倒してしまいます。
イギリスのオリンピック委員会の中で、エディーをエントリーさせるかどうか随分モメたようですが、度量の大きさ、広さをみせ、エディーを70メートル級ジャンプの選手として認めたました。このあたり、アメリカ、日本など、とにかく勝つため、メダルを獲得するためだけに目的を絞り過ぎていて、“参加することに意義がある…”という童話になってしっまたとはいえ、本来のオリンピック精神を忘れているように思います。
それが、結果的にカルガリー・オリンピックのアイドルを生むことになりました。エディーは70メートル級で61.5メートル、余勢をかって出た90メートル級では(これはエディーが初めて飛んだ90メートルクラスですが…)73.5メートルをどうにか転倒せずにフィニシュし、1920年代のイギリスジャンプの記録20何メートルだかを大きく塗り替えたたのです。
カルガリーのジャンプで70メートルと90メートル両方に優勝したフィンランドのマッチー・ニッコネンの名前は忘れられても、“エディー・ジ・イーグル”はイギリス人の間だけでなく皆の記憶の片隅に残ったのでした。
もちろん、エディーの記録はメダルなどには全く縁がなく、ただ観る人を、“アアッ 危ない、転ぶぞ、転ぶぞ、ア~ア、転ばずに着地できた、ホッ!”とハラハラさせ、分厚いド近眼のメガネで満身喜びを表すことに声援を送ったのでした。言ってみれば、成功しない、勝たないことで愛されたのです。
エディーはカルガリー・オリンピックのアイドルになり、その時のジャンプのメダリストの名前は忘れられても、“エディー・ジ・イーグル”の名前は人々の心に刻まれることになったのです。閉会式の辞でもエディーの名こそ挙げませんでしたが、「イーグルが空を舞った…」と、IOCの会長さんがヤリ、会場はヤンヤの喝采、大いに沸いたものです。
カルガリーの後、IOCは通称“エディー・ジ・イーグル・ルール”なるものを作り、参加基準をより厳しく設定して、左官屋さんが2年くらいの練習でエントリーできないレベルにしてしまいました。それでもエディーは、1992年のアルベールビル、1994年のリレハンメル、1998年の長野オリンピックの出場権を得ようと奮闘しましたが、とてもエントリーの基準に届かす、出場できませんでした。
平昌のオリンピックでも、“エディー・ジ・イーグル”のようなアイドルが生まれるといいのですが…。
Eddie The Eagle Ski Jump 1988
https://www.youtube.com/watch?v=C2LVihKXFwM
-…つづく
第549回:食は文化と呼べるか?
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