第471回:歴史に《もし》はないか…?
私の好きな詩人はロバート・フロストです。現代アメリカでも最も広く読まれている詩人の一人でしょう。日本語にも翻訳されています。
彼に『The
road not taken』(歩まなかった道)という有名な詩があります。人生にはたくさん選択があり、技路があり、もしあの時自分が違う枝道に進んでいたら、今の自分とは全く違っていただろう…という思いは誰にでもたくさんあるのでしょうね。私の場合は、マアそれほど真剣ではないのですが、彼の詩のように夢想することがあります。
芥子粒(ケシツブ)にも満たない私の人生ですから、私が美人に生まれついていようがいまいが、パスカル先生がおっしゃったように《クレオパトラの鼻があと1センチ低かったら》世界の歴史は変わっていた…ような事態にはなり得ません。
(この言葉確かパスカルだとは思うのですが、出展を調べて何に書いてあるのか見つけることができませんでした。ウチの雑学仙人は、ありゃパンセの中にある言葉だけど、パンセ自体、彼が書いたものでないはずだ、と言っています。もうひとつパスカルの《人間は考える葦である》という有名な言葉も全くピンときません…)。
ブスと言わずに、具体的に1センチと言い切ったことで、なるほどと説得力がグンと増します。 鼻ペチャのクレオパトラに誰が惚れるものか、シーザーもアントニオも彼女に見向きもしなかっただろう…と言いたいのでしょう。いずれにせよ、クレオパトラ云々は昔過ぎて、話としては面白いけど、彼女の鼻が高かろうが、低かろうが現在の自分とは関連のないことのように思えます。
しかし、ヒットラーとなると話は別です。
彼がゲージュツカ、画家を志していたことは広く知られています。ヒットラーはプロの絵描きの登竜門、ウイーンの美術学校を二度受験し、二度とも落ちています。そこで、歴史の大きな"もし"なのです。"もし"美術学校に受かっていたら、後年のナチス党も生まれず、戦争も起こらず、ユダヤ人虐殺もなかったろう、3千万とも6千万人とも言われる人の命も失われることがなかったのではないか、と広がっていきます。
そんなことを言い出したら、ヒットラーを落とした美術学校の先生が歴史的選択を、マチガイを犯した、第二次世界大戦を開いた鍵を握っていた…とまでいうことになってしまいますが…。
ヒットラーを持ち出したのは、最近、ヒットラーのウイーン時代の友達で、狭い屋根裏部屋に一緒に住んでいたアウグスト・クビツックという音楽家の『アドルフ・ヒットラーの青春、親友クビツックの回想と証言』という本を読んだからです。
アウグストはヒットラーとオーストリアのリンツの町ですでに友達になっており、ヒットラーがウイーンに出て美術学校に入るというので、アウグストもそれなら俺も…と同居しました。アウグストは音楽が専門でした。画学生と音楽学生が同じ部屋に住み始めたのです。ヒットラー、19歳の時のことです。二人の芸術家の卵が一緒に住んだ割には、二人の間に問題がなかったようにアウグストは書いています。と言うのは、ヒットラーの方が、一日中外を出歩き、絵の勉強より、都市計画の作成に忙しかったからです。
ヒットラーはウイーンの安下宿屋で、1905年から1908年にかけてアウグストと一緒に暮らしましたが、ある日突然、姿を消し、数年後、アウグストがヒットラーの名前を見たのはミューヘンでナチス党が活躍し始めたニュースででした。
アウグストは音楽家として生涯を送りました。当時はオーストリアの領でしたが、現在、スロバキアの北東にある町、マリボルの交響楽団の指揮者を勤めました。
ヒットラーが国家元首になってからも、何度か手紙のやり取りをしています。それが大戦後、連合軍のナチス狩に引っかかり、16ヶ月に及ぶ審判に及んでいます。これなども、ヒットラーが美術学校に受かっていれば、アウグストは審問で散々な目に遭わずに済んだかもしれないと広がっていく可能性があります。
アウグストの弁論はタダ一点、私はヒットラーの若き日の友人だったから、どんなことがあっても友人を裏切るようなことはしたくなかったし、しなかった…というものです。
このように、時間を経てから歴史上の出来事を鳥瞰図的に眺め、あの時、ああしていれば戦争に勝ったであろう、選挙に勝ったであろうと想像するのは、ほとんど意味のないことです。しかし、無意味な夢想の楽しみというものもあってよいと思います。すべての歴史は必然の繋がりだというのでは、あまりに現実肯定に過ぎ、血や肉のある人間が歴史の中で生きてこないように思えます。
私の鼻があと1センチ高くても、低くても、世の中、全く変わらなかったことは確実ですが…。
《参考:Wikipediaより抜粋》
The
road not taken (選ばれざる道)
by
Robert Lee Frost (ロバート・リー・フロスト)
Two
roads diverged in a yellow wood,
And sorry I could not travel both
And be one traveler, long I stood
And looked down one as far as I could
To where it bent in the undergrowth;
Then
took the other, as just as fair,
And having perhaps the better claim,
Because it was grassy and wanted wear;
Though as for that the passing there
Had worn them really about the same,
And
both that morning equally lay
In leaves no step had trodden black.
Oh, I kept the first for another day!
Yet knowing how way leads on to way,
I doubted if I should ever come back.
I
shall be telling this with a sigh
Somewhere ages and ages hence:
Two roads diverged in a wood, and I?
I took the one less travelled by,
And that has made all the difference.
夕焼けに染まった森の中で、道が二手に分かれていた
残念ながら、両方の道を選ぶことはできない
私はどちらを選ぶか長く考え、片方の道に目をやった
その道は、多くの人が通り、整備されていた道だった
それから、もう一方の道に目をやった
そっちは誰も通らない道で、草が生い茂っている
私にはそっちの道のほうが、とても魅力的に見え、その道を歩き始めた
わたしは自分の歩む道は、自分が作らなければならないと思ったから
あの日、私は自分自身の道を選ばなければならなかった
あっちの道はまたの機会にしよう、と思ったが、二度とこの場所に戻ってこないことを、私は知っていた
私はいま、昔のことを思い出し、ため息をついた
ずっと昔、森の中で道が二手に分かれていた
そして私は、人が通らない道を選んだ
その道のりは、想像を超えるほど大変なものだった
しかしそのことが、どれほど私の人生を刺激的で、おもしろいものにしてくれたことか
第472回:食人、喫人のこと
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