第15回:そして大虐殺が始まった その1
どうにも個人的な偏見だと分かっていても、中には立派な聖職者、宗教人もいると知りながら、宣教師、説教師上がりの人間を信用できない。聖書の知識だけにしても、私より遥かにモノを知らず、世界史の中で聖書物語が生まれた時代背景に無知な者が多い。彼らが優れているはただ一点、演説、感情を込めた説教だけと思ってしまうのだ。それもワンパターンな話の展開で、しかも口調も皆似かよっている。こんな説教を聞いて宗教心が高まり、感動する人間がいるのだろうかと、参列者の頭脳、心理、精神のあり方にまで疑いを持ってしまう。
確かに優れた人物も中にはいる。が、それにしても、演説だけが巧みでも、それが他の能力にまで演繹されることは、非常に少ない。だが、本人はそれで人心を掴み、コントロールできると自己暗示に近い過信を持つようになるのだろうか…。

ジョン・シヴィングトン(John Chivington)
シヴィングトンはその典型的な人物だった。押し出しは立派だし、声に張りがあり、その上、話、演説が巧みだった。また、保身に長け、上層部との強いキズナを築く才能があった。コロラド領域の知事エヴァンスとはツーカーの仲だったし、カーチス将軍にも巧みに取り入って、インディアン対策穏健派のウェインコップ少佐を更迭させた。目の上のタンコブを取り払ったのだ。
彼のインディアン嫌いは狂信的だった。そこに持ってきて、ハングゲイト一家をドッグ・ソルジャーが襲い、女、子供を虐殺する事件が起こったことは『第9回:サンドクリーク前夜 その5』に書いた。インディアン撲滅ムードが高まった。おまけに、コロラド北部をパトロールしていたブラント将軍が、1,500名からなる敵愾心をもったシャイアン族と接触したことを、「襲われた」と、エヴァンス知事とレブンワース本部(Leavenworth)にいるカーティス将軍に電報を打っているのをシヴィングトンは知った。
その情報が広がり、デンバーの南西部にインディアン戦士3,000名が集結している…との未確認情報が流れた。この際、それが事実であるかどうかは問題でない。恐怖に慄いているコロラドの白人たちは、そんな情報に飛び付き、インディアンを撲滅せよとの圧倒的な世論を作っていった。デマであっても、人は信じたいことを信じる生き物なのだ。
少し冷静にシャイアン族、アラパホ族の構成、部落のあり方を見れば、1,500や3,000の戦士が集結することなどあり得ないのだが、恐怖に囚われた白人、軍人、騎兵隊員、そしてシヴィングトンをはじめとするインディアン撲滅派はそれを信じた。第一、シャイアン族、アラパホ族にそんな多数の戦士の食料を保存、移動させる能力などなかった。
ドッグ・ソルジャーが活発にテロを成功させたのは、少人数、せいぜい40~50名からなる機動部隊を構成し、素早く動けたからで、ヒットエンドランは機動力があって初めて成功していた。インディアンサイドには3,000名の戦士を機能的に統率できる酋長もおらず、大会戦を展開するトレーニングもなかった。そんな大人数のインディアンが集結できる可能性が全くないことを考えようともしなかったのだ。
だが、この恐怖が産んだ肥大した情報は、シヴィングトンと彼が率いる第三義勇騎兵隊に心理、社会的な後押しをした。こんな時なら、インディアンに対し何をやっても許されると取ったのだ。
シヴィングトンは、自分の名を挙げ、軍歴を確固たるものにするチャンスがきたと思ったことだろう。
シヴィングトンはレブンワースのカーティス将軍に、「すでにコロラド第三義勇騎兵隊はすべての訓練が終わり、どのような司令にも対応できる準備が整っている」と電報を打っている。食い詰め者の炭坑夫とならず者、あぶれ者が主だった義勇軍850名を、1ヵ月少々で軍人として訓練など施せるはずがないのだが、カーチス将軍もエヴァンス知事も、軍人としては全くど素人のシヴィングトン、しかも義勇軍だから、100日の契約期限が来れば法的に解散できる即成義勇軍に、インディアン討伐をやらせてみる気になったのだろうか、シヴィングトンにシャイアン族討伐の全権を与えたのだ。

サンドクリーク周辺地図
エヴァンス知事とカーティス将軍からのお墨付きを貰ったシヴィングトンは、勇躍フォート・ライアン(Fort Lyon)に向かった。実際、彼はすでに第三義勇騎兵隊を先に砦に向かって出発させており、その後を追うようにシヴィングトンはライアン砦に入った。隊員たちには攻撃目標を明かしていない。
フォート・ライアンに集結したのは、サイラス・ソウル大尉の率いる第一義勇騎兵隊とシヴィングトンの第三義勇騎兵隊だった。軍の命令系統から言えば、シヴィングトンは大佐で、大尉のサイラス・ソウルはシヴィングトンの下、命令に従わなければならない立場だ。
フォート・ライアンは元々インディアンとの交易、パイオニアたちの物資を扱うためにベント(William Bent)が設けたトレーディング・ポストだった。それを1862年に軍が借り受け、和平協約に基づきシャイアン族などへの供給物資の貯蔵庫になっていた。私たちがイメージする砦とは違い、常駐の騎兵隊の大隊が駐屯しているようなところではなかった。
ライアン(Lyon)は南北戦争で亡くなった最初の将軍の名前だ。現在のフォート・ライアンは、アーカンサス川の氾濫後、20マイルほど上流に新たに建てられたもので、サンドクリーク事件当時のモノでもないし、場所も違う。こんなことを知らずにフォート・ライアンに行ったところ、そこは遠の昔にコロラド州に返却され、一時期、軍のサナトリュウム、病院になり、その後、ホームレス・シェルターになっていたことを知らされた。よくあることだが全くの無駄骨だった。
-…つづく
第16回:そして大虐殺が始まった その2
|