弘法大師に至るまでに並ぶたくさんの墓所は、ひとえに大師のそばで眠りたい、という願いによるものだそうだ。企業の従業員慰霊碑も多い。企業と宗教の結びつきには違和感があるけれど、おそらく、企業が大きくなる前の、個人商店のような時代に帰依した名残だろう。奥の院では弘法大師がいまも禅の修行をされているという。まさか……と思うけれど、その御廟の前に立てば、疑うほど自分が愚かだと思わせるほど神聖な気持ちになる。
高野山では予定よりも長い時間滞在した。終着駅を引き返すだけではなくしっかり見物しよう、と思っていたけれど、それは1時間程度の見積もりだった。しかし、さまざまな形をした墓石を長め、赤いモミジの散歩道を歩く心地よさは、つかの間、鉄道を忘れた。山内を巡るバスを乗り継ぎ、金剛峯寺や根本大塔も眺めてケーブルカーの駅に戻ると14時を過ぎている。午後の陽射しの強い時間を高野山で過ごした。宗教心の薄い、通りすがりの鉄道好きでさえも引きつける魅力があった、ということだろうか。
高野山で予想以上の見物時間。
ケーブルカーで高野山を下り、極楽橋で南海電車に乗ると、弘法大師のカリスマに圧倒された気持ちが落ち着いてきた。南海高野線は極楽橋と橋本駅の間は短い編成で走り、橋本駅で増結して都心を目指す。橋本駅で電車を増結する様子を眺める。大きな機械ががっしりと手を組む様子はおもしろい。墓石群の眺めに比べれば有り難みには欠けるけれど、どちらも同じくらい興味深い。
橋本から大阪都心へと北上する。勾配は緩くなったけれど、山岳路線の余韻は続いている。車窓は山岳から丘陵へと移り変わり、その境目は長いトンネルになっている。高野山へは山をグイグイと上り下りしたけれど、紀見峠は長いトンネルでくぐり抜けた。丘陵地帯の最後のトンネルを出ると美加の台駅。○○の台、○○が丘という駅は新興住宅地の特長で、車窓に戸建て住宅やマンションが並び、高野線は都市近郊の路線になった。ここに住む人も弘法大師のそばに住みたい、と望んだかという空想は楽しい。窓が高野山に向いているような気がするけれど、そちらが南向きなのだ。
難波行き快速急行は文字通り快い速度で走っている。夕刻のベッドタウンを眺めていると、なんとなく家が恋しくなる。歩き回って足も疲れているし、高野山散策のおかげで日程は2時間も遅れた。だからこのままに乗って大阪へ出て、新幹線に乗ろうかと思ったけれど、未乗区間の魅力が疲労を上回る。この先の中百舌鳥から分岐する泉北高速に乗りたい。しかし快速急行は中百舌鳥に停まらない。私は北野田で各駅停車に乗り換えた。快速急行を見送ると、すぐに各駅停車側の信号が青になり、追いすがるように発車した。
お出かけ帰りの人々で賑わう。
中百舌鳥は難波から電車で30分ほどの距離にある。高野山に比べるまでもない大都会だ。泉北高速線のホームはお客さんが多い。都会からニュータウンへ帰る人たちだ。東京でも名古屋でも見かける、ありふれた風景だ。しかし、僅かだが大阪の文化を象徴する女性がいる。髪の毛を紫に染めたおばさん。信じられない。紫色の髪なんて、アニメの中にしかいないと思っていた。髪を2本に束ねた女の子が、みんな"じゃりんこチエ"に見える。作者のはるき悦巳氏が、大阪の女の子の特長としてこの髪型を選んだ理由がよく解る。男性の服装は東京も大阪も変わらない。気を配らない人が多いようだ。
泉北高速鉄道は、大阪府によって造成された泉北ニュータウンと都心を結ぶために建設された。泉北高速鉄道自体も大阪府の資本が入った第三セクターだ。東京の多摩ニュータウンと似ているが、鉄道は小田急と京王が担っている。アクセス路線まで自治体が参加しているという点では珍しい。全線立体交差の高規格路線は費用がかかる上に、開拓途中の住宅地では売上も期待できないから、官民協力して鉄道を敷きましょう、となったようだ。
目的地へ向けて直線で駅を結ぶ。
ホームの雑踏の流れに合わせて電車に乗る。立ち客が多いから、座らない方が景色が見えるだろう。となればやっぱり一番前、運転台の後ろに立つ。終点の和泉中央まで16分の旅である。旅だと認識しているのは私だけで、周りは用事の帰りに乗っている人々だ。私だけが好奇心まる出しで前方を注視している。いや違った。私の腹の前に男の子がいた。この電車には鉄道好きが2名。
電車は帰宅を急ぐ人に配慮したかのようにまっすぐな線路を行く。陽が傾いて、線路がオレンジ色に輝いている。マンションや団地が続く景色は単調だが、今日は山ばかり見てきたせいか、都会的な眺めが新鮮だ。深井駅から先の眺めがすごい。高規格道路と一体となって、線路の両側に2車線の一方通行道路がある。その道路は他の幹線道路とインターチェンジで交差している。まさに交通の大動脈。これが終点の和泉中央まで続いていた。和泉中央の手前から阪和自動車道が上空に重なって、さらに重厚な景観になった。
道路併走区間とマンション群。
新興住宅地を象徴する風景だ。
泉北高速鉄道は1965(昭和44)年に地方鉄道の認可を受け、わずか2年後に泉ヶ丘までの7.8kmを開業した。大阪府が関わっているだけに、事業認可前に道路整備と平行して路盤を作っていたのではないか、と思わせるような段取りの良さだ。その約2年半後には栂・美木多、約3年半で光明池まで開業する。しかしそこから先はゆっくりしていて、和泉中央へ2.2kmの延伸は18年もかかった。
泉北高速鉄道の最終目的地は和泉中央ではないらしい。地図を見ると、平行する道路はその先まで延伸されており、上下の道路の間は約1kmわたって空いている。これは鉄道の予定地ではないか。その先は岸和田市になっている。少子化により人口が減少傾向なので、これ以上の鉄道への投資はなさそうだが、もしここから先へ延ばすなら……という空想は楽しい。
和泉中央駅を出て景色の良いところを探し、夕陽が沈んでいく様子を眺めた。その方角が泉北高速鉄道が進む道を示しているように思えた……と書きたいが、残念ながらかなり西にズレている。世の中は、ちょうど良くカッコイイ場面が登場するほど甘くなかった。
和泉中央駅から夕陽を見る。
-…つづく