第898回:初等教育は個性を伸ばすためにあるの?
もう引退してますが、私も“元”教育者、教師でしたから、アメリカの教育システムについてかなり批判的な意見を持っています。そして、教育問題というのは経済、社会、政治問題と少しばかり異なり、誰でもが皆体験してきたことでもあり、または自分の子供が現実に関わっていたりで、アウトサイダーでいることが許されない問題だと思います。
私が教えていた地方大学の学生さんの質の低下は目を覆いたくなるほど酷い状態でした。国語である米語でキチンと間違いなく話せない、書けないのです。全くと言っていいくらい本を読んでいませんから、自分の体験したこと、育ってきた狭い環境、スマホで知るインスタント知識以外のことを想像もできないのです。
掛け算九九すらできない子が入学してくるのです。もちろん、中にはズバ抜けて優秀な子もいます。私はそんな優秀な生徒さんに、もっと良い大学、大きな大学、海外、主にイギリス、カナダの大学へ移るように勧めています。
一つの傾向は、自分の興味のある科目はとてもよくヤルのですが、他の科目は「私、嫌いだ。中学校の時の先生が悪かったから、何も学ばなかった」で済ませてしまうのです。人生、自分のやりたいことだけやって済ませることができるなら、それにこしたことはないのですが、そんなことは現実にはあり得ないことが分かっていないのです。
現実は全く眼中になく、ただ嫌いなこと、イヤなことはしないのです。その代わり、自分の好きなことには異常な集中力、持続力を発揮する生徒さんも極少数ですがいます。
この傾向は、子供の時から甘やかされて育ってきたからでしょう。流行りのモンテソリー方式、子供の個性を見出し、それを存分に伸ばすという方針、それはそれで素晴らしいことに違いがありませんが、個性を伸ばすこととワガママを許すことは、幼児期にあってほとんど同じことで、何事にもジーッと耐え、考えることができない子供を量産しているのです。
アメリカでどこの州でもホームスクーリング、学校に行かず家庭で親、あるいは親類の叔父、叔母などに付いて学ぶことが許されています。それは主に公立の学校で、自分の子供が悪い影響を受けずに育てたいという親のエゴから出発しているます。早く言えば、数あるキリスト教のセクト、親が信ずる宗教だけが真実であり、公立で教える、例えば進化論、無神論、社会主義などの悪影響から我が子を守るために自分で教えると言うのです。
そして公立の学校では、不可能な子供たちの個性を伸ばすためのカリキュラムが大幅に認可されている学校があります。“チャータースクール”と呼ばれています。一応、その州、郡、町の教育委員会の規定に沿ってはいますが、幅が広く、カリキュラムなどは各チャータースクールで自由に組むことが許されています。
教育委員会の下ですから、授業料は無料です。公立の学校に我が子を通わせるか、チャータースクールに行かせるかは親の裁断に任されています。ですが、建物、施設は普通の家より少し大きめなだけで、屋内体育館などはありません。そこで教えていた日本人の先生をよく知っていましたので、内情を詳しく知ることができました。
チャータースクールでは体罰どころか、生徒さんをキツク叱るのはその子の感情を傷つけるので、してはいけないのだそうです。褒め殺しが推奨され、間違いを強く指摘するのではなく、良い面を褒め、子供の指向性を見極めるのだそうです。
考えてみるまでもなく、すべての子供が天才ではありません。それどころか、何千、何万の子供は私たちと同じ、特別な才能など持ち合わせていない普通の人間です。ところが子を持つ親、特に母親は我が子だけ、特別な存在で、なんらかの才能を持っているはずだと勘違いしているのです。
モンテソリーは元々、知恵遅れの子供にどのような教育を授けるべきかに端を発しています。マリア・モンテソリーはお医者さんでした。障害児、知的障害のある子供たちをいかに、社会に順応させるか、それには障害児の指向性を見極め、それを伸ばしてやることが一番だと…というところから出発しています。
ところが、私の生徒さん、教え子は何千、何万になるでしょうけど、その中で本当の意味での勉強、一つのテーマに向かう真摯な態度を持っていた生徒さんは数人いたでしょうか?
言うまでもないことですが、教育の根本は出世し、成功して勝ち組にならなくても、普通の社会人として彼、彼女の所属する社会で一人前の人間として生きていく自覚を持たせることです。それには、子供たちに本を読ませ、想像力を豊かに育てることです。退屈な勉強を強制してもいいのです。良い子、良い子と褒めあげる必要なんかないのです。
小学校教育でピカソやアインシュタインを育てる必要はないのです。本当に才能がある子供なら、普通の公立学校からでも出てくるでしょう。そこまで行かなくても、ノーベル賞受賞者は甘やかされた環境からは出てきません。独創性などは周囲が指摘したり、育てるものではなく、その子の中から自然に現れるものです。
そこで、公立の小中学校の質を上げるにはどうすれば良いかという大問題に直面します。
歴然とした事実なのですが、大学で教員養成学部の生徒さん、将来小中学校の先生になるための教育学部の生徒さんの質は学内で最低なのです。他の教授たちも私と同じ意見で、彼らの、彼女らの頭は髪の毛を載せる台としてしか役に立っていないと嘆いています。そして、あんなレベルの低い成績の生徒さんがどうにか卒業して、小中学校の先生になるのかと思うとゾッとすると言い合っています。
こんな田舎町でも学校の建物は誠に立派です。ウチのダンナさんは、「これに比べたら、俺の通っていた日本の小学校、中学校はバッラクも良いところ、アウシュヴィッツみたいだったな」と嘆息するくらいのモノです。
小中学校の先生の質を引き上げるのは簡単なことではありません。まず給料を上げ、採用の基準を厳しくし、かつ長い夏休み期間中に毎年、ひと月くらいの講習を受けさせるという地道な努力を教育委員会が続けることでしょうか。魅力ある職業にすることが先決です。
それにキッパリと生徒のご機嫌取り、甘やかすやり方を止めることです。加えて、子供の個性、独自性などを尊重するという、バカげた方針を捨てることです。何千万人に一人の天才を見つけ、その才能を発展させるために公立学校があるのではないのです。普通の子供が彼らが属する社会で立派な社会人として自立して生きていくための基本的な態度を培うために初等教育はあるのです。
そして、世の親たち、自分の子は特別だという考えを捨てるべきです。特別なのは、その子が自分の子だという一点からだけだということを認めるべきなのです。いつまでも子供にへばりつく、ヘリコプター母親はその子を社会性のない我儘なモンスターにするだけです。
公立の学校教育は詰め込み教育でいいのです。覚えられない子、できない子は放課後まで学校に残し、復習させていいのです。子供の感情を傷つけるから…と言うのはタワゴトです。
ホームスクーリングやチャータースクールを廃し、悪ガキのいる公立学校に我が子を通わせるべきなのです。
と、アメリカの学校教育のあり方を見ていると、ついつい厳しいもの言いになってしまいました。
第899回:外国人留学生と中国への留学ー
|