第63回:サン・テルモのイヴォンヌ その1
イビサは夏だけの観光地で、主に長期滞在するバカンス客相手に成り立っているような島だ。毎年、いくつものレストランがオープンし、ひとシーズンもたずに潰れていく。今思うに、『カサ・デ・バンブー』をどうにか続けていけたのは、奇跡に近いのかもしれない。
年中営業している大都会のレストランと違い、店を開けているのが半年、勝負するピークは3、4ヵ月だけだから、その短い期間に冬眠できるだけのモノを稼がなければならない。それでいて、賃借物件なら1年分の家賃を払わなければならないし、営業税(当時、税金は収益によらず、シーズン前にレストラン、バールのカテゴリーや席数に応じて払はなければならなかった)も、半年商売だろうが、1年中開けていようが、同じ金額を支払わされたのだ。
ハイシーズン中に結構流行っているように見えていたレストランが、翌年には持ち主も、レストランの看板も変わっていることは茶飯事だった。逆に、あまりぱっとしないバール、レストランでも、地元の人を相手にやっているところは潰れないで細々と生きながらえていた。
当時、一番人気のRestaurant 『Sausalito』(サウサリート)、1985年撮影
こんな島だから、老舗とみなされる良いレストランは育ちにくいのだが、例外的に何時行っても、レベルの高い料理をコンスタントに出すレストランもあるにはあるものだ。
港の先端にある『サウサリート(Sausalito)』、城壁近くの『ブラッソン(Blason)』、そして『サン・テルモ(San Telmo)』などだ。いずれもフランス料理なのは偶然ではなく、店主がたたき上げの本格的コックだったからだ。
毎年のように入れ替わるレストランはもっぱら、小銭を持ったドイツ人、イギリス人、北欧人などが思いつきで始めたような店で、ド素人がイビサに棲むための方便として始めたところが多い。と書いてから、私自身が『カサ・デ・バンブー』を始めたのも、ただイビサとイビセンコ(イビサ人)がすっかり気に入って、そこに住みたいからだったということに気が付いた。北欧勢やイギリス人、ドイツ人の彼らと多少違うのは、私に軍資金と呼べるような金がなく、いわばハングリーだったことだろうか…。
『サン・テルモ』のイヴォンヌは、13歳の時にコックの修行に出され、コート・ダジュールのカンヌだったかニースだったかのリッツホテルのシェフにまで上り詰めた経歴を持っていた。イビサに来たのはあまりに自己犠牲を強いるコック業を十数年続け、疲れが出て、少し休みたかったからだった。その時、イヴォンヌは30歳になんなんとしていた。
このイビサで休養し、バッテリーを十分にチャージしようとしたのだが、ある日カルメンと出会い、若い二人は燃えに燃え、結果、カルメンが妊娠し、イヴォンヌはこの島で仕事を探さなければならなくなった。
イビサ港の船着場、真ん前の袋小路にあるレストランがシェフを探していることを耳にし、レストランのオーナーに会いに行ったところ、その場で採用になり、即台所に入ったのだった。その時、イヴォンヌのポケットには500ペセタ(当時の価値で5千円程度)しかなったから、どんな仕事でも、ハンバーガー屋でも、フィッシュ・アンド・チップス屋でも、何でも良かったのだと言っている。
『サン・テルモ』はカタラン人のオーナーがステーキハウスのような形で、安くてボリュームのあるメシを食わせる安い定食屋だった。船着場近くだったから、フェリーの乗降客を相手にしている安直なレストランで、路上に張り出した細長のテーブル、それに見合った背もたれのない長いベンチを並べただけの簡易食堂だった。
オーナーにとって、コックは肉を焼け、フライドポテトを揚げることができるなら誰でも良かったのだろう。ハンバーガーやステーキ用の肉はレストラン向きに冷凍パックされたものを専門業者から降ろしてもらっていた。フレンチフライ(イギリスで言うポテトチップ)も冷凍で、そのまま熱い油に入れて揚げるだけになった営業用のものだった。
イヴォンヌが台所に入ってから、メニューの内容、料理の質がガラッと変わった。長い木のテーブル、ベンチはそのままだったが、彼自身が毎日、自分で肉屋に出向き、新鮮な肉を厳選し、仕入れ、冷凍肉を一切使わない。焼くのも、小さく波を打った分厚い鋳物の鉄を緩やかに傾斜させ、脂肪を流し落とすように、じっくりと火を通すのだ。
“グワルニション(guarnición)”と呼んでいる付け合わせの野菜類の煮込みも、地元の農家を回って何軒かと話をつけ、採れ立てのものばかりを使い。ベイクドポテトにもこだわり、探し回った結果、ベルギーから取り寄せることにしたのだった。
イヴォンヌに替わった1年目から、『サン・テルモ』は一皿注文すれば、腹を空かして出ることはない、払った分、十二分の見返りがあるとの評判を得たのだった。イヴォンヌの哲学ともいえない信条は、ただ単に、“料金に見合っただけのモノを、量、味、サービスでお客に返す…”というだけのことなのだが、これぞ“言うに安し行うに難し”であることは、自分でヨチヨチ歩きのカフェテリアをやってみて初めて分かったことだった。
『サン・テルモ』のカタラン人オーナーは典型的なヨソ者で、レストランはイビサでなら一見の観光客相手だから誰にでもできると、半分は道楽ショーバイと取っていたことは明らかだった。連日連夜、その日の売り上げを握り、バー、ディスコに通い詰めたのだろう、オフシーズンに入って、レストランを閉める時、コックのイヴォンヌをはじめ、洗い場のヒターノ(ジプシー)のアングスティア、3人のウエイターへの給料の支払いが滞ってしまっていた。
イヴォンヌは自分の給料を棒引きし、彼の奥さんであるカルメンがやっていたブティックから、相当のお金を回して貰い、洗い場、ウエイターなどの負債をすべて引き受けるカタチで『サン・テルモ』を引き継ぎ、自分のモノにしたのだった。
San Telmo(サン・テルモ)、テラス席が人気。写真は最近撮影のもの
翌年、イヴォンヌがオーナーになってから、『サン・テルモ』はあれよあれよというばかりに変貌していった。
私が買い物ついでに旧市街の船着場の前にある『サン・テルモ』に顔を出すと、イヴォンヌがフランス訛りの抜けないスペイン語で、キッチンヘルパーやウエイターたちに細かい指示を与えているが聞こえるのだった。私の顔を見ると、こちらの意向など関係なく、冷蔵庫から冷えたビールを出し、ポンと栓を抜き、手渡してくるのだった。
そして決まり文句の挨拶のように、「お前のところ、まだ潰れないでやっているのか?」と訊き、「マアー、『カサ・デ・バンブー』が潰れたら、俺のところで使ってやるゾ…」と冗談めかして言うのだった。
店主になったプロのコックが陣頭指揮をとると、こうまですべてが違ってくるのかと唖然とするほど、働いている人の動きが違ってきたのだった。もちろん、メニューの一品一品が選び抜かれたものになっていった。
-…つづく
第64回:サン・テルモのイヴォンヌ その2
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