第18回:天国の沙汰も金次第 その1
バッハが生きていた時代の音楽家には、安定した収入の道は二つしかなかった。王宮に仕えるか、教会でオルガンを演奏し、合唱の指揮するかだけだった。いずれにせよ、一ヵ所に雇われる使用人のレベルだった。他の副収入の道、結婚式、葬式、何らかの集いで演奏し、歌い、ご祝儀、お捻りを貰う、街頭ミュージシャンとして生きる道はあるにはあったが、これは縄張りがあったりでとても安定した職業とは言えなかったようだ。バッハ一族にも、たくさんのストリートミュージシャンがいた。興行師が現れ、コンサートを企画し、入場料を取るようになるのは100年以上先のことだ。
スペインに住んでいた時、“ツーナ(tuna)”と呼ばれる学生たちが、中世の吟遊詩人もどきの服装をして、5、6人から十数人の徒党を組み、ギター、マンドリンの伴奏で街中を練り歩き、朗々とした声で歌い歩くのを何度となく目にし、耳にした。
彼らの歌声は、石畳の歩道、石造りの構築物に反射しよく響き、オヒネリ、御祝儀も結構な額になるように見受けられたが、もっともそれは年に何回かの祝祭日に限られたことだし、金満家の結婚式や大枚を叩いて、自分の恋人の住む窓辺で求愛の歌を唄って貰うことができる階層の息子の要望があればのことで、ツーナ吟遊詩人の稼ぎだけで生活できる筋のものではない。
彼らに何度か話しかけたところ、皆が皆、大学生で(その当時、スペインでは大学に行けるだけでエリートだったが)、話し方、言葉遣いですぐに分かる“エエとこの坊ちゃん”たちだった。
1878年のツーナの風景
スペインの吟遊コーラスグループ
ドイツ、チューリンゲン界隈では事情が違った。
バッハが兄の元を去らなければならなくなり、15歳でリューネブルグの聖ミカエル教会の付属学校にタダで在籍することが許された。バッハは15歳でもまだソプラノの声域を保っていたし、音楽の能力が際立っていたからだ。バッハが加わったのはメッテンコール合唱団(私の相当苦しい翻訳では、ミサの前の合唱という意味か?)で、奨学金の12グロッシェンがもらえるソプラノ歌手になったのだ。
他の準メンバーが4グロッシェンと記録にあるから、バッハは相当優遇されたといってよいだろう。当時の金銭感覚を捉えるのは難しい。17世紀のザクセン、しかもド田舎で、どのくらい貨幣経済が行き渡っていたのだろうか、商業都市ならいざ知らず、田舎ではまだ物々交換が幅を利かせていたと思われる。
そのリューネブルクで、バッハは修道院に寝泊りし、食事それに暖房用の薪、ランプの脂を支給されていたから、12グロッシェンはポケットマネー、お小遣いだったのだろうか。給付金だけでは十分でなかったのだろう、バッハは街頭を歌い歩く合唱隊に加わっている。
だが、リューネブルクにはもう一つ聖ヨハネ教会の聖歌隊があり、街中でしばしばかち合った。当然、縄張り争いが始まる。晩年のデップリとした容貌から想像しにくいのだが、モノの本によると、若年のバッハは戦闘的で隠し持った棍棒で聖ヨハネ教会の合唱隊員と渡り合ったとある。縄張り争いが激化するほど、“流し”の実入りは良かったということだろう。
両方の流し合唱団は、お布施を入れる鍵のかかった箱を持っていて、喜捨はすべてその箱に入れることになっていた。そして、教会に帰って箱をカントルンが開け、相当な上前をはね、 次に助手役がかすめ取り、残りを実労組、合唱隊員に与えたものだった。子供たちに街頭で歌わせ、その上前をはねるのは道徳に悖るという非難、批判は全くなかったようだ。
リューネブルグの町
ヨーロッパの古い町には分不相応な大きな教会が
町の中央に腰を据えている
バッハに変声期が訪れたのは16歳だった。現在の感覚では随分遅いような気がする。引く手あまたのソプラノで歌えなくなった現実はバッハを打ちのめしたことだろう。ここでもまた、初老バッハの肖像画のイメージから、どうにもバッハがボーイソプラノだったことが浮かんでこないのだが、彼のソプラノを聴いてみたかったという思いが残る。
ソプラノの声域が潰れても、バッハはヴァイオリン、ヴィオラ、鍵盤楽器に群を抜く才能を見せていたので、教会の管弦楽団の助手のような役を割り当てられ、給付金も1ターレル増給された。変声期のバッハに流しの収入が閉ざされてしまったから、1ターレルはそれに見合う額だったのだろう。
バッハは聖ミカエル教会付属の特設学校で、あと一年で大学入学資格を取れるところだった。15歳で兄の下を離れてから、音楽の才能だけで自活してきたのだ。だが、バッハはあと一歩で大学に行けるところまで来ていながら、聖ミカエル教会の特設学校を最終学年で去っている。
それからのバッハの求職活動は目まぐるしく、ザンガーハウゼンのマルクト教会のオルガニスト、ワイマールの楽団員、アルンシュタットの聖ボニファティウス教会(現バッハ教会)のオルガニストに就こうと果敢に運動した。聖ボニファティウス教会の新設オルガンのテストをし、試演するチャンスを掴み、ほぼこの町、この教会のオルガン奏者に内定した。その時、バッハはすでにワイマールのヴァイオリン、ヴィオラ奏者の職に就いていた。
18歳にもならない青年が、当時オルガン製作で盛名を馳せていたゲオルグ・クリストフ・ヴェンダーが3年掛けて作り上げたオルガンを事細かにチェックし、テスト演奏したのだった。その場にオルガン製作者ヴェンダーも列席していた。当然のことだが、チューリンゲン界隈だけでなく、中部北ドイツからオルガン奏者、教会関係者がバッハのテスト演奏を聴きに押しかていた。
バッハは本来の自信家であり、他人の意向を考慮しない性格だった。この巨匠が造ったオルガンに対しても容赦なく、欠点を指摘した。ヴェンダーはそれを一々もっともなことだとして受け入れ、修復、補修を約束したのだった。オルガンそのものの構造、音の響き、力強さ、繊細さにおいて、高いレベルでバッハとヴェンダーは理解し合ったのだろう。
ヴェンダー製作、バッハがテスト、試演したしたオルガン
現在、復元され、教会の名前もバッハ教会に帰られた
アルンシュタットの町並み
このテスト、試演奏で、バッハは宿、食事代として1グルデン、試演の報酬として4ターレルの報酬を得ている。ワイマールのヴァイオリン、ヴィオラ奏者の職に就いて12ヵ月経っていなかったが、そこを去り、アルンシュタットの聖ボニファティウス教会のオルガン奏者の職に就いたのだった。
-…つづく
第19回:天国の沙汰も金次第 その2
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