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■音楽知らずのバッハ詣で
 

第19回:天国の沙汰も金次第 その2

更新日2022/03/31

 

アルンシュタットの人口は当時4,000人内外だった。この人口に俗に言う女、子供は含まれていない。いずれにせよ中以下の小さな町だった。領主はシュルツブルグ伯爵領のいとも懸命でかつ慈悲深き伯爵アントニオ・ギュンター閣下だった。バッハは自分でテストした新造オルガンが据え付けられた聖ボニファーチウス教会の主席オルガニストになったのだ。時に1703年、バッハがあと何ヵ月かで18歳になろうかという時のことだ。

その時の給与は年50グルデン、ほかに食費、住居費として30ターレルだった(1グルデンは7分の8タ-レル)。それは、バッハ一族でもそんな高給を取っている者がないほどの高額だったとされている。それだけアルンシュタットの町の市参事たちは、無理算段をしてもバッハを取りたかったのだろう。また、それだけバッハの能力を評価していたのだろう。バッハは初めて給費生ではなく、音楽で給料を取る自立した音楽家になったのだった。

シュヴァルツブルグ伯爵の“教育委員会”とでも言えば良いのだろうか、バッハの筆頭雇用主である伯爵家の官房、法律顧問が作成した契約書が残っている。それによると、マアー事細かに、たかが一オルガン奏者のために、よくぞこれだけの文書を作ったものだと呆れるほどのものだ。

伯爵に忠誠を誓う、命ぜられた職務に励む、オルガンを整備して常に最高の状態に保つ、決められた日には事前にオルガンの席に着き、滞りなく演奏をする、ほかの仕事やアルバイトはするな、加えて、日常生活の心構え、信仰篤く、教会、町の恥じになるようなことはするな、仕舞には、交際する友人にまで規定が及ぶという、こんな職務規定、契約に誰がサインするものかと思わせるほど、微に入り細に入り羅列してあるのだ。その割りに、契約の年次に触れておらず、雇い主はいつでも、何らかの理由をつけて一介のオルガニストのクビを簡単に切れるのだ。

宮廷や教会、市に仕える音楽家はいずれも似たような境遇で働いた=飼われていた。音楽先進国?であったイタリアで、オペラに限ったことだが、興行師が現れ、市民から入場料を取って音楽を提供する兆しが見えていたが、ザクセンの田舎町では、音楽はあくまで教会か宮廷に付属するものだった。いわば宮廷や教会の下級使用人扱いだった。

バッハは若かった。有り余るエネルギーを持っていた。自ら進んでギムナジウム(高等学校)の合唱隊の訓練を申し出、それを実行している。このギムナジウムの生徒は、アルンシュタットで悪名を馳せていた悪ガキ集団で、いかがわしいところ(娼婦がたむろするような
)に出入りし、酔っ払い、ギャンブルに耽り、狼藉を働いていた。18歳のバッハより年上の生徒もいたことだろう。こんな生徒たちを統率するのはバッハの手に余る、不可能だから止めておけ、忠告する人が幾人もいたくらいだ。ところが、バッハの圧倒的な音楽能力の高さを見せ付けられた生徒の中に、バッハに心酔する者が現れ、それが徐々に広がり、合唱隊の質を徐々に高めていった。それに加え、伯爵家の私設劇場で演奏する際、バッハは優秀な生徒を引き連れて行った。これは、謝礼が期待できるお勤めだった。

素晴らしい声で歌うことと悪ガキであることは矛盾しない。何回目かのバッハ・フェスティバルのことだったか、最終コンサートで感動的なロ短調ミサを歌い終えたトマナコアー(聖トーマス教会少年合唱団)の面々が、例のセラー服姿のまま駅の構内でサッカーボールを蹴って遊んでいた。というより、自宅に帰る途中、ボールを蹴りながら、プラットホームを走っていただけのように見えたが、それを駅員はドイツ的な激しさで、ボールを取り上げ、まさに噛み付かんばかりに大声で叱っていた。往復ビンタで張り倒さんばかりの勢いで、鼻先を子供たちの顔に近づけ、唾を飛ばして大声で怒鳴り散らしていた。捕まった子はシュンとして、じっと耐えていたが、幾人かの子共はサッとボールを抱えて、その場から逃げた。

それがほんの30分前に聖トーマス教会で全聴衆を感動させた聖トーマス教会少年合唱団の少年たちなのだ。折りしもサッカーのワールドカップの最中だったという言い逃れはあるにはある。この世界に名だたるトマナコア(Thomanerchor;聖トーマス教会聖歌隊)のメンバーに、もしドイツ・ナショナルチームのサッカーの選手になりたいか、それとも当時聖トーマス教会のカントルであり、親しまれていたゲオルク・クリストフ・ビラーのような音楽家になりたいかと尋ねたなら、まず確実に100%近くの少年はサッカーの選手になりたいと答えたことだろう。サッカーボールを蹴って遊ぶことと、あくまで澄んだ天使のような声で歌うこととは矛盾しないのだ。彼らが厳しいトレーニングを経て、高い音楽性を身に付けていても、サッカーの一蹴り、ゴールの感動が彼らを捉えているのは、自然なことなのだ。

バッハはプロのオルガニストとして、アルンシュタットの町で生涯を過ごすこともできたはずだ。おまけに、この町でマリア・バルバラという、バッハと同様、10歳で孤児になった少女に、おそらくバッハ一流の激しさ(と想像するのだが…)で恋をしたのだから…。

No.19-01
マリア・バルバラ、バッハの最初の妻

マリア・バルバラはバッハの従姉妹に当たる。初めバッハは彼女に音楽の手ほどきをしていたが、それが熱烈な恋愛に変わるのに時間を要しなかった。実際、マリア・バルバラは声楽に、チェンバロの演奏に抜きん出た才能の持ち主だったようだ。

アルンシュタットのオルガニストに、合唱団、管弦楽団の若いトレーナーに反感を持つ勢力もいた。首謀者はハインリッヒ・ガイエルスバッハというファゴット吹きだった。彼を先鋒として、5、6人のガキ集団が棍棒を手にバッハを待ち構えて急襲したのだ。それに対し、孤軍のバッハは腰に下げていた剣を抜いて対抗した……ことになっている。

この逸話には不可解な部分が多い。教会のオルガン弾きのバッハが帯剣してたのだろうか。それにバッハが剣の修業をしたという記録はない。この件は、バッハがアルンシュタットの教会委員会に訴えたことで知れるのだが、委員会は短気で瞬間湯沸かし器のようなバッハにも責任がある、ともかく怪我人が出なかったのだから…と、ガイエルスバッハ組は全くお咎めなしという決裁に終わっている。

この事件でバッハがアルンシュタット市の参事、教会の委員会に失望したのだろうか、それよりオルガンを極めたいと、こんな田舎町にいては駄目だ、リューベックの大ブクステフーデを尋ねて弟子になろう、あわよくばブクステフーデの跡を継ぎ、聖マリエン教会のオルガン奏者になれるかもしれないのだ。

No.19-02
リューベックはバルチック海に面した古い町だった

リューベック(Lübeck)はハンザ同盟に加盟している自由都市で、田舎町アルンシュタットと比べるまでもない大都会だった。そこの聖マリエン教会の大オルガン、そして偉大なブクステフーデがそれを弾くのだ。そこへ、リューベックへ旅立ったのだ。バッハがガイエルスバッハと街頭で立ち回りを演じてから1ヵ月後のことだった。

聖マリエン教会の主席オルガン奏者になろうという野望をバッハは持っていた。なにせ大ブクステフーデは、70の坂を越した老大家であり、後継者を必要としていたのだから。

No.19-03
ブクステフーデの唯一の肖像画と言われている絵画
手に持っているのは通奏低音
(*1)に欠かせないヴィオラ・ダ・ガンバで
ギターのようにフレットが付いている

*1:通奏低音:バロック時代の西洋音楽に特有な低声部の形態。「数字付き低音」とも呼ばれます。

No.19-04

多分に余談になるが、この大きな城門のある町リューベックは、トーマス・マンゆかりのところで、若かりし頃、何度となく読み返した『トニオ・クレーゲル』の舞台になっている。私はバッハにのめり込む前、ヒッチハイクでこの町を訪れたのは、この小説のためで、その時、バッハがこの町へ、ブクステフーデに会うためにやって来たことなど知らなかった。

-…つづく

 

 

第20回:天国の沙汰も金次第 その3

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佐野 草介
(さの そうすけ)
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海から陸(おか)にあがり、コロラドロッキーも山間の田舎町に移り棲み、中西部をキャンプしながら山に登り、歩き回る生活をしています。

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