第429回:流行り歌に寄せて No.229 「圭子の夢は夜ひらく」~昭和45年(1970年)
『夢は夜ひらく』は、この「流行り歌に寄せて」のNo.147で、園まりの歌として紹介させていただいている。同じ曲を二度扱うことは、原則的にはこのコラムでは行なわないが、今回は敢えて書かせていただきたいと思う。
それは、偏に石坂まさをの書いた詞に、底知れぬ魅力を感じるからだという理由である。
例えば、中村泰士、富田清吾の詞による園まり版は「雨が降るから逢えないの 来ないあなたは野暮な人 ぬれてみたいわ二人なら 夢は夜ひらく」と歌い始めている。
詞が大変に流麗で艶があり、園まりの甘く柔らかい声で歌われると、心底まいってしまう。これこそ素敵な歌謡曲という感じで、私も大好きなバージョンである。
翻って、石坂まさをの『圭子の・・・』版は、あくまで泥臭いというか、目新しい響きを感じさせる言葉はなく、一見、過去の演歌に使われているような言葉が並んでいるように見える。
けれども、その内容を具に見ていくと、番ごとに、作詞家が執念のようなものを込めて書き刻んでいく、その後ろ姿が垣間見られるような気がする。この曲は、この詞で、そして彼女の声で、何としてもヒットさせてみせる。これこそが、「夢は夜ひらく」という歌なのだ。そんなセリフが聞こえてくるのである。
「圭子の夢は夜ひらく」 石坂まさを:作詞 曽根幸明:作曲 原田良一:編曲 藤圭子:歌
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それでは、番ごとに詞を見ていくという愚行を試みる。
〈1番〉
いきなり『赤く咲くのはけしの花』である。ケシは、最近でこそあまり言われなくなったが、モルヒネ、ヘロインなど麻薬の原料であるため、当時は「あへん法」などにより栽培が禁止されていた品種が多い花として知られ、一般的に敬遠されていた。最初に毒気のある花、そして純潔のイメージの白百合を並べてから「どう咲きゃいいのさこの私」と問いかけてくる。
〈2番〉
沢木耕太郎が、昭和54年(1979年)に28歳で引退を決意していた藤圭子にインタビュー取材をし、彼女の死後発表した『流星ひとつ』というノンフィクションがある。これを読むと、藤圭子本人は15歳~17歳までを『暗かった』とはまったく思っていなかったようだ。もちろん、石坂にとっては暗いことにしておかなくては詞にならない。
〈3番〉
上記の本によれば、すでに元歌を知っていた藤が、ある時何気なくメロディーに合わせて『昨日ハー坊、今日マミー、明日はジョージかラリ坊か』と適当に口ずさんでいたところを、石坂が「それ、もらった」とばかりに採ったものらしい。
ハー坊、マミーなどは、藤と親交のあった、当時売り出したばかりのグループサウンズ、オリーブのメンバーなどのニックネームらしい。詞にするとき、少しもじってある。ただ、実際は日替わりの恋などということはまったくあり得ない、大変に幼く子どもっぽい、メンバーたちとの親交だったと、藤は断言している。
〈4番〉
ネオンと蝶々。藤のデビュー曲、石坂が詞を手掛けた『新宿の女』の中にも『ネオン暮らしの蝶々には』というフレーズがある。演歌にはよく使われるキーワードと言えそうだが、嘘を肴に酒を汲むというのは、一見陳腐な言い回しだという感じがして、実はありそうでなかった言葉の並びだという気がする。
〈5番〉
未来に夢を持つような、そして過去を振り返るようなのは、両方とも自分の柄ではないと言うのだが、『よそ見してたら泣きを見た』というのが面白い。荒削りで、かなり強引な言葉の使い方が、迫力を出している。
〈6番〉
『一から十まで馬鹿』だったのは、自嘲気味に振り返った自分のことかと思って聴いていると『馬鹿にゃ未練はない』と、これは他者のことをクールに断じている。ところが、最後は『忘れられない奴ばかり』と強い未練の言葉で結ぶのである。人称も内容もコロコロと転じていて統一されていないが、なぜか「そういうことか」と頷いてしまう不思議な歌詞である。
石坂まさをの詞の魅力は、気が利いたり、洗練されたりした言葉はほとんど使われていないけれど、何か「ドンッ」と、半ばむき出しの言葉を、さながらテキ屋さんのようにお客の前に並べて、「さあ、どうです、響きませんか?」と迫ってくるようなところにあるのではないか。
以前にも書いたが、同じ石本美由起門下生である山上路夫が「貴公子の山上」と呼ばれていたのに対し「野生児の沢ノ井(石坂の以前のペンネーム)」と揶揄されていたというのも理解できる。
そして、その詞が藤圭子にはぴったり嵌った。デビュー曲『新宿の女』から『女のブルース』、今回の曲、『命預けます』『女は恋に生きてゆく』など次々とヒット曲が作られていったのである。
石坂は、その後多くの歌手に詞を提供しているが、藤の曲ほどの大ヒットにつながったものは多くなかったようである。
それでも、私には昭和48年(1973年)の内田あかり『浮世絵の街』、昭和50年の郷ひろみ『花のように 鳥のように』、そして昭和52年の小林旭『北へ』の3曲は大変印象に残っている。
『浮世絵の街』は山本寛斎が衣装を、上村一夫がレコードジャケットを担当して、大きく仕掛けられた曲。内田あかりの妖艶さが、男心を掴み、70万枚の大ヒットとなった。作曲は川口真。
『花のように 鳥のように』。まさに洗練という言葉が似合う筒美京平が、「野生児」石坂と組んだ異色の作品と言える。筒美が曲をつけると、石坂の詞もこんな雰囲気に聴こえるのかと、大変興味深い。
『北へ』は、何回か先に、このコラムで取り上げたいと思う。私がいつも口ずさんでいる曲である。
さて、石坂まさをは平成25年(2013年)3月9日、長く苦しい闘病生活の末にこの世を去っている。生前の彼の関係者による『石坂まさをを偲ぶ会』はその年の8月23日に催されたが、その前日に藤圭子は高層マンションから飛び降り自殺をした。
石坂の闘病中の見舞いも、葬儀へも、藤は行かなかったという。恩師に対する不義理だと指摘する人も多いが、すでにそのようなことができる心の余裕を、藤はまったく失っていたのではないかと、私は思う。
それでは、何が彼女をそうさせてしまったのか? むしろ、そちらの方に、私は思いを馳せるのである。
第430回:流行り歌に寄せて No.230 「希望」~昭和45年(1970年)
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