第150回:横文字を縦にすること…?
更新日2010/03/11
この田舎の大学に新しい修士課程を作ったり、インターネットで学べる通信教育課程を始めたり、日本語講座を始めたり、少しは私の苦労が認められたのでしょうか、図書館に仕入れる本の予算が私の元に回ってきました。
教科書、参考書の類は出版社がタダで大量に送ってくれるのですが、それ以外の本、生徒さんに是非読んでもらいたい本、私自身も自分の専門に直接関係ないけれど、読んでおきたい本などを大量に買うチャンスはありませんでした。なんといっても本は高いですから私の給料では毎月何冊も買うことができません。
私に回ってきた予算は、上手に使うと100冊くらいの本を買えそうな額なので、私にとってクリスマスとお正月、誕生日が一緒に来たようなプレゼントなのです。
まず、予算を二つに分けて、私の専門である言語学の本と日本関係の本を買うことにしました。言語学の方は、選ぶのに全く問題がありませんでした。ところが日本関係の本、文学、ジャーナリズム、論評、歴史など、今の日本人が書いたもので英語に訳されているものや、日本人が英語で書いたものを買いたいと思っていたのですが、そのような本はほとんどないに等しいのです。欧米人が日本について書いた本はたくさんありますが、日本人の作品を翻訳したものは極端に少ないのです。
今、日本現代文学で一番多く英語に訳されているのは、おそらく村上春樹でしょう。彼自身がアメリカに長いこと住み、優れた翻訳者に恵まれ、彼と翻訳者のすり合わせも良いのでしょう、英文も"アレッ、春樹さん英語で書いたのかな"と思わせるほどの文体に訳されています。私が勤める田舎の大学ですら、ハルキ・ムラカミの文学講座は一番人気で、教室に入りきれないほど生徒さんが集まります。
彼の次に英訳されている二番目の作家がいないのです。強いてあげれば安部公房、開高健、大江健三郎が数冊ずつ、あとはカワバタ、ミシマになってしまいます。そして断言してもよいと思いますが、テンポの遅い甘ったるい川端康成の英訳を読んで、日本文学にとりつかれる欧米人は余程特殊な人でしよう。ほとんどの人はあまりの退屈さに途中で投げ出してしまうでしょう。伝統的な日本の感性は翻訳すると消えてしまう性格のもののようです。
最近、圧倒的に翻訳されているのは漫画、アニメです。アニメに比べると、現代日本文学なんて一体そんなものが日本にあるのと言うぐらい影の薄い存在です。
日本の本屋さんに並んでいる本の半数以上が英、仏、独などの西欧語からの翻訳本で占められているのに比べ、アメリカの本屋さんでアニメ以外の日本語からの翻訳本はゼロに等しいと言っていいでしょう。
日本語への翻訳が盛んなのは、日本人が貪欲に外国の文化を取り入れている証しなのですが、文化とは言いにくい最新の推理小説からハーレークイーン、アメリカ、イギリスのダイムノベルに至るまで、日本語に訳され、店頭に並んでいます。
逆に、西欧の出版会では日本で人気のある大衆作家の作品など全く無視されています。坂本龍馬の本でも、司馬遼太郎の『龍馬がゆく』は翻訳されておらず、西欧人が坂本龍馬とは一体誰なのだと知ろうとすれば、マリアス・ジャンセン教授の書いた『Sakamoto
Ryoma and Meiji restoration』を読むより他ないのです(これは非常に優れた本だとは思いますが…)。
これがジャーナリズムや評論の世界になると、もっと悲惨なことになります。ウオーターゲイト事件でニクソンを追い詰めたカール・バーンシュタイン、ボブ・ウッドワードの本は言うに及ばず、ピュリツアー賞の受賞作は必ず日本語に翻訳さているのに対し、大宅壮一賞の受賞作がどれだけ外国語に翻訳されているかを考えると絶望的になります(ウチの旦那さんによると一冊も翻訳されていないのではないか、ということですが)。
翻訳文化に関し、日本は圧倒的な輸入大国で、輸出の方は雀の涙ほどしかしていません。たくさん理由を数え挙げることができるでしょうけれど、一つには文部省や大学が日本の本を外国語に翻訳することに熱心でないし、お金も使わないからでしょう。大学の出版局でも、偉い先生が外国の本を翻訳し出版することには熱心ですが、その逆に、日本人の作品を外国語に翻訳、出版することに全く関心がないようなのです。
日本では翻訳イコール横文字を縦にすること、と考えているフシがありますが、これからは、縦文字を横にする、地道な作業に陽を当てていかなければ、日本文化は奇形化してしまうと思うのですが…。
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