第915回:“お迎えが来る”…まで
私の父は93歳で、相当弱ってきています。その上、記憶の方も怪しくなっているとはいえ、まだ生きていることを楽しんでいます。私自身が老人になり、さらに超老人クラス(日本では後期高齢者と言うらしいですが、後期のあとは末期高齢者とでも呼び、死ぬしかないと感じるのは私だけしょうか?)のダンナさんを持つせいでしょうか、周辺に亡くなる人、まじかな人、いつ逝ってもおかしくない人が増えてきました。
私の親戚で母方は、母を初め、母の兄、姉はだいぶ前に鬼籍に入っていますし、長寿系の父方も叔父叔母、それに従姉妹もだいぶ前に亡くなっています。
先日従兄ジェリーから電話があり、彼の妹(私の従姉妹です)ジャネルの旦那さんのジョーに、ほとんど全身にガンが転移しているのが発見され、もうどんな治療をするにも手遅れの病状だと知らせてきました。ジョーは60代前半の元気な、とても明るい人で、従姉妹ジャネルとまるでティーンエイジャーの恋人同志のような家庭を持っていました。
ウチのダンナさんの親友の奥さん、彼女は思い遣りのある、いつも元気一杯の人で、外人の私に自然に接してくれ、私に日本女性の友達がいるという感覚を抱かせてくれた人でした。彼女もガンで今春亡くなりました。親しい友人を失った感を強く持ちました。
ガンだけではないででしょうけど、ガンに罹ったというと、一昔前なら、死亡宣言を宣告されたようなものでした。今でも多くの人がガンで亡くなっていますが、一方で、ガンのできた場所によっては完治するようになってきましたし、年々新しい治療法が試され、実施されていますから、もうガンは不治の病、死亡宣言ではなくなりつつあります。
一般的にアメリカの病院、お医者さんは、本人に対して、患者さんが余程重病で判断力がなくなっていない限り、直接病状を伝えます。その時、優れたお医者さんなら、どこに、どのくらいのガンがあり、その治療の選択肢などをきちんと説明します。これが難しいところで、ガンだと本人に伝えるか、伝えないか、ではなく、どのように病状を説明するか、しないか、そんな能力がお医者さんにあるかどうかの問題になってきます。お医者さんの人間性が問われることになります。もっとも、多くの患者さんを診なければならず、忙しいのは分かりがますが、死を迎えるであろう患者さんにどう対応するかのトレーニングが全く欠けているように思えます。
私は母方の祖母が亡くなった時、妹のローリーも居合わせました。私たち兄弟、姉妹でローリーだけがただ一人教会に行き、深い信仰を持っています。その彼女が、お婆さんが朦朧として横たわっているすぐ脇で、お婆さんの手を握り「お婆さん、死ぬのを恐れているの? 何も怖いことなんかないのよ」と言ったのです。それを聞いて、私の母、叔母、そして私、顔を見合わせました。娘たち、私の母と母の姉ですが、そして私もなすすべもなく、ただただ死にゆく祖母を観ているだけでしたから、祖母の死を素直に受け入れ、死んでいく祖母に対してハッキリとそのように告げた妹に目を開かされた思いがしたのです。
日本の老人ホームは、義理の母親が最晩年そこで暮らしていましたので、そこでの様子は割りによく知っています。そのホームは少子化で閉鎖になっていた小学校を利用して運営されているところで、完全看護の老人9人づつのユニットが二つ、あとそこで自立した生活ができる人のための(主に夫婦)部屋がいくつかあるという施設でした。
決して豪華な老人ホームとはいえませんが、経営がしっかりしているのか、一人ひとりの老人に目の行き届いた素晴らしいところでした。働いている若い介護士さんたちは入居している老人個々の性格、癖、症状をよく心得ていて、それに上手に対応しているのです。ダンナさん”最近の若い者はヤルナ~、えらいな~、俺にはとてもできないな~」としきりに感心していました。
9人グループに入居している人たちは本人自身、そこに死ぬまでいることを分かっているし、どこまで強く意識しているかどうかは別ですが、施設で働いている人たちもそのユニットに入っている老人たちはこれから元気になり、出る可能性など全くないことを知っています。それでいて、老人たちも介護士さんたちもとても明るいのです。老人たちは仲間が一人欠け、二人欠けていく現実を体感しているのですが、「明日は私のところへお迎えが来るかもね…」と、実にアッケラカンとしているのです。
自分の死をあれだけハッキリと見つめることができるものでしょうか、充分生きたからいつ逝っても良い、と達観できるのは凄いことだと思います。自分の死を自然体で受け入れるのはどこかサトリの境地に近いとさえ思えます。“お迎えが来る”という表現は、もちろん誰か、神様、仏様、エホバ、キリスト、観音様が迎えに来るというのでなく、死神が青ざめた馬で来るのでもなく、寿命が尽きたら、天にいるかいないか分からない誰かが、あるかないか分からない現世の向こう側に行く感覚が上手く言い表せていると思います。誰も苦しんで死にたくありません。自然の成り行きに身を任せ、本人の意思ではとてもコントロールできない死を受け入れるのは、感動的なほど美しいことだと思うのです。
キリスト教文化にどっぷり浸かっている西欧人、アメリカ人は、最後までモノに囲まれ、そして神の身元へ旅立つという、意図的に作り上げた幻想に頼っているように思えます。後世に名を残したいとか、財産を有効に慈善事業に寄付したい、自分の思い出が子供たち、孫たち、そして永劫の子孫に留まりますようにと、自分の死をとても大きく、すべての人にとって大事なことのように捉えているのです。
そんな意味でも、“お迎えが来る”というように自分の死を自然に、生命が尽きたからちょっと向こう側へ行ってくる感覚、生死感は、自分のエゴを脱却したサトリの境地のようにさえ見えます。
こんなテーマでコラムを書くようになったのは、それだけ私も死の前奏曲を意識し、演奏し、終曲に近づいてきたからでしょうね。
-…つづく
第916回:コーヒーとトランプ関税
|