■くらり、スペイン~移住を選んだ12人のアミーガたち、の巻

湯川カナ
(ゆかわ・かな)


1973年、長崎生まれ。受験戦争→学生起業→Yahoo! JAPAN第一号サーファーと、お調子者系ベビーブーマー人生まっしぐら。のはずが、ITバブル長者のチャンスもフイにして、「太陽が呼んでいた」とウソぶきながらスペインへ移住。昼からワイン飲んでシエスタする、スロウな生活実践中。ほぼ日刊イトイ新聞の連載もよろしく!
著書『カナ式ラテン生活』。


第1回: はじめまして。
第2回: 愛の人。(前編)
第3回: 愛の人。(後編)
第4回:自らを助くるもの(前編)
第5回:自らを助くるもの(後編)
第6回:ヒマワリの姉御(前編)
第7回:ヒマワリの姉御(後編)
第8回:素晴らしき哉、芳醇な日々(前編)
第9回:素晴らしき哉、芳醇な日々(後編)
第10回:半分のオレンジ(前編)
第11回:半分のオレンジ(後編)
第12回:20歳。(前編)
第13回:20歳。(後編)
第14回:別嬪さんのフラメンコ人生(前編)
第15回:別嬪さんのフラメンコ人生(後編)
第16回:私はインターナショナル。(前編)

■更新予定日:毎週木曜日




第17回: 私はインターナショナル。(後編)

更新日2002/08/15 

アミーガ・データ
HN:HARU
恋しい日本のもの: 『ラーメン』『お店やモノ』『友達』

春分の日に生まれ、「春」と名づけられたHARU。この日は、国連が定める国際人種差別撤廃デーでもある。しかし皮肉なことに、彼女は、私の友人の中でもひどい差別を受けてきている方だ。まさにハーフであり、言葉が喋れないという理由で。悲しいことに、私たちの母国である日本で。


スペインでは、同級生とケンカしても次の日は仲良しになっていた。自分が誰かに無視されていたら、その子に「なんで?」と聞けば、言い合いになっておしまい。どうしても気に食わなかったらその子とケンカしとけばいいだけ。仲良しになれば、なお良いのだけど。


10歳で、言葉のわからない日本へ。最初は近所の女の子と一緒に帰宅していたのだが、ある日、いきなりその子に無視されるようになる。「言葉が通じなかったかな?」とその後も挨拶をしつづけたが、ぜんぜん返事をしてくれない。ケンカにもならない。HARUは、友達らしい友達ができないまま、小学校時代を終えた。


中学は、区立の2つの小学校の生徒が進学してくる。新しい子たちとの出会いに、HARUは胸をときめかせていた。でも、それはすぐ落胆に変わる。日本語が上達するにつれ、残念だけど日本の嫌な面が見えてくるようになった。

中学校では、小学校以上に「みんなが一緒であること」を強要される。スカートの丈まで決められていた。頭髪検査などもある。理不尽だと思いながらも従っていたHARUに、ある日、教頭が、くるくると巻いた彼女の髪を指差してこう言った。「それ、いつも美容院に行ってパーマかけてるんだろう?」 ハーフの帰国子女という彼女の立場を理解してくれるひとは、教師の中にもほとんどいなかった。


言葉がわからないせいで、勉強面で「落ちこぼれ」になってしまったのも辛かった。スペインでは「できる子」だったのに。数学も理科も、言葉さえわかればわかるのにと悔しい思いをした。

最悪だったのが中学3年の時。好きだった男の子がいたのだが、それが噂になると、隣同士だったのにわざと机を離されたりと、1年間、露骨に避けられ続けた。集団での無視、教師の理解も得られない。次第に、やる気を失った。

高校進学を考えるようになると、自分の将来に絶望してしまう。当時のHARUの学科試験の成績だと、偏差値で低いレベルの都立にしかいけなかった。外国人が多く自由な校風だと聞いている憧れの都立国際高校は、一般受験では無理なレベル。いや、ひょっとしたら、どの高校にも入れないんじゃない? そしたら、私はいったいどうすればいいんだろう!?

もともと楽天的な父は、娘の悩みの重大さに気がつかなかった。自身の再就職で大変だったせいもあるだろう。母はやはり日本に耐えられず、HARUが12歳のときに、スペインへ帰ってしまった。HARUは誰にも打ち明けられないまま、ひとりで悩みを抱え続けていた。「なんのために生きてるんだろう」 そんなことも、何度も考えた。考えても、答えは出ない。「……死んだ方が、楽になるのかな」 そう結論を出しかかったこともあった。


結局、予想していた都立高校に入ったものの、どのグループにも所属しなかったHARUは、グループ間のケンカをきっかけに無視しはじめられる。また、か。もうバカバカしくて、つまらなくて、たまらなかった。学校を辞める決意をした頃、ちょうど、都立高校間での転校が認められるようになるという知らせを耳にする。


「人生最後のチャンスかもしれない。これでダメだったら、私の人生、すべてダメになる!」 気が狂いそうなほど思い詰めてのぞんだ転入試験で、HARUは見事、憧れの都立国際高校への入学が認められる。これをきっかけに、ようやく彼女はその力を、積極的に前向きに活かせるようになった。


高校卒業を待って、まずアメリカへ。日本に残ることは、まったく考えていなかった。それからバルセロナでスペイン語を学びながら、やりたいことはなにかと考え続けた。そうだ、小さな頃から好きだったアートを、ちゃんと勉強しよう。


現在、HARUは両親と離れてマドリードに暮らしながら、デザインの専門学校でデジタルデザインを学んでいる。3年間の学校で、もうすぐ、最終学年のコースがはじまる。いまはその後のことを考えている。

現在までスペインと日本に、だいたい人生の半分ずつ住んできた。どちらかだけに、特別思い入れがあるわけでもない。たとえば言いたいことが言えるのはスペインの良いところだけど、視野が狭くてなんでもスペインが一番と思っているのは嫌。日本は思いやりがあるところが素晴らしいけど、みんなが一緒じゃなきゃいけないのはしんどい。


多民族がいるアメリカに行くのも良いかな? とも考えている。どういう国か知るために、いつか1年以上住んでみたい、と。

そういえばこれまで付き合ってきたインド系アメリカ人、メキシコ系アメリカ人などの男性とは、英語で話すことも多かった。いまの彼とも、英語とスペイン語で会話している。もちろんハーフやクォーターだから付き合うわけではない。友人には、日本人もスペイン人もいる。ただ、国際的な感覚を持っていて、視野が広いひとが好き。


最近は、こう考えるようになった。私は私、どの国にも所属しない。だから、出身はどこかと訊かれたらこう答えている。「私は、インターナショナルなんだ。」


インタビューを終えて、私がHARUの立場だったら親を恨んでいただろうなぁと思った。なんか中途半端にグレて、「だってトラウマだもんねワーンワーン」と泣き言を並べたりしそうだなぁ、と。


でも彼女は、自分で自分の将来を切り拓いてきた。日本という、故郷であって異国であった国でイジメられ、精神的に追い詰められたところから、一歩、一歩、生きる道を探してきた。強く、たくましく。本当に素晴らしいことだと思う。手がちぎれるまで拍手したい。


HARUは、ハーフに生まれて良かったという。ふたつのカルチャーが血に流れていること、視野が広くなったこと、どちらも好きなのだという。"Soy internacional.(I'm international.)"と言ったときの彼女は、とても素敵だった。生き抜いてくれて、ありがとうね。こうして友達になれて、本当に良かったよ!

 

 

第18回:ナニワのカァチャンの幸せ探し(前編)