18時24分発穴水行。日は落ちたとはいえ、まだ夕方と呼べる時刻。しかしこの列車が穴水行きの最終列車である。穴水で乗り継ぐ七尾行きも最終列車で、つまりこれに乗らないと、今日のうちに金沢に戻れない。これが廃止寸前のローカル線の現状である。観光客が乗らない時刻の列車に乗ると、この鉄道が地元にとっていかに不要なものかよくわかる。都会では帰宅ラッシュが始まる時刻に、この列車はガラガラに空いている。客はほかにひとりしかいない。
夜の車窓はつまらない。窓ガラスが鏡になって、反射した室内と自分の顔しか見えないからだ。都市なら夜景が見えるけれど、灯のない車窓を眺めていると気持ちが滅入ってくる。暗い窓ガラスに映し出されるものは、中年男の疲れ果てた表情、そして、心の奥に潜んでいたさまざまな記憶たちである。思い出したくないことを思い出したり、ふだん避けていることを考えていたりする。ふだんなら様々な用事で忙殺されて逃げおおせているというのに、旅に出ると逃げ場がない。答の出ない問題に悩まされることになる。
最終列車の車内は寂しい。
もっとも、ひとり旅はそんな心情に決着をつけるための機会だとも言える。少年時代の旅は常にそうだった。漫然とした不安に立ち向かう強さを得るために、叶わぬ思いを振り切るために。いま心にあるものが、自分の真の思いであるか否かを確かめるために……。私の旅は、未乗の鉄路に出かけ、帰って地図を塗りつぶすという目的だった。しかし、それは旅立ちの口実で、気持ちの整理をつける時間が欲しい、という理由もあったことを認めよう。
そして20年経ったいま、実は旅の目的はあの頃と変わっていないのではないか、と自覚する。煩わしい雑念の奥には、いまでもくすぶる野心があり、きっかけさえあれば燃え上がろうとしていた。そして、心の奥にはいまでも思い続けている人がいて、私はその人の幸せを祈っている。その何人かは私を懐かしく思うかもしれない。しかし、私を恨み、悲しみ、哀れむ人もいるだろう。いまはただ、私に関わるすべての人々の幸せを祈りたい。償いにはならないが、多少の救いにはなるだろう。
こんな気持ちになるから夜の車窓は嫌だ。今回の旅で、私がもっとも恐れていた時間は、珠洲から金沢に戻る5時間だった。この5時間をどう過ごすべきか。旅立つ前まで気にしていた。5時間の間に、列車が禅寺に着いたなら、私はそこで旅を終え、改札口を飛び出して、再び列車に乗ることはないとさえ思う。
富山に戻らず、奥能登や珠洲のどこかで泊まればいいのだ。しかし私が富山にこだわる理由は、翌日の行程にある。富山市発の列車でスタートすれば、北陸のJRのローカル線巡りに都合が良い。今日の富山着が23時28分、翌日は06時08分の列車に乗る。滞在時間は6時間ちょっとだ。これは宿を取るには短すぎる。だから今回の旅では富山のネットカフェで仮眠を取るつもりだ。宿がないぶん、列車で贅沢しようというわけで、往復の道中でグリーン車に乗れるきっぷ『北陸フリーきっぷグリーン車用』を用意したのである。
恋路駅。雪とイルミネーションが交錯する。
ふと車窓に目を凝らすと、闇の中に赤い光の塔が見える。列車がスピードを落とし、駅に停まった。駅名標に恋路とある。恋路海岸には、デートスポットのシンボルが作られているようだ。その光の中に恋人たちの影が見える。近くに停めているクルマで来たのだろう。能登線がなくなっても、あの場所は変わらない。北海道の愛国駅と幸福駅は保存されている。近くに商魂たくましい土産屋もある。恋路という名の駅は、どんな形で残されるのだろうか。
恋路海岸の由来は、助三郎と鍋乃という恋人たちの悲しい物語である。釣り好きの助三郎が、潮干狩りに来て溺れた鍋乃を助ける。二人は互いに惹かれあうものの、人目を忍んで逢うしかなかった。おそらくは身分が違ったのであろう。鍋乃は月のない夜に海岸を訪れ、目印の篝火を焚く。助三郎はそれを目印にやってくる。
しかし、鍋乃に恋するもうひとりの男、源次が策を講じる。鍋乃に言い含めて足止めし、ひとりで海岸にやってきて、崖の上で篝火を焚いた。それを目ざしてやってきた助三郎は海に落ちて死ぬ。助三郎の死を知った鍋乃は悲しみのあまり助三郎の後を追い、同じ場所に身を投げた。鍋乃の情愛と死を知り、ようやく源次は過ちを悔いた。源次は仏門に入り、二人の供養と修行を続けた。
何十年の時が過ぎ、この海岸の観音堂にひとりの老僧が住みついた。そして、男女が観音堂にお参りすると恋が成就する、と評判になる。やがてこの場所は恋路海岸と呼ばれるようになった。私がこの伝説に共感する部分は源次の後悔である。死した二人を供養するより、成就した二人の幸せを祈る方が幸せではなかったか。それは辛いことであろうけれど、潔い生き方であったはずだ。
私はますます思考の深淵に迷い込もうとしていた。そして救いを求めるように、鞄から本を取り出した。友人から借り受けたハードカバーの小説だった。友人の知人が書き、なにかの賞を受けた物語。それはゲーム業界を舞台にしたミステリーだった。いまの気分を紛らすにはちょうど良いテーマだ。人のいない車内で、私は物語に没頭した。主人公の青年の回りで起こる不可解な事件。
その謎を調べていくうちに浮かび上がる真実。そして、彼が慕い、彼を愛に導く女性の存在。ああ、きっとこの二人が困難を解決して、ハッピーエンドで終わるのだろう、と思っていた。ここで列車は穴水に到着。私はしおりを挟み、脇目もせずに次の列車に乗って、再び物語に没入する。ヒロインは美しく聡明で、私の心の奥で形作られた理想の女性と重なった。主人公と同じ気持ちで、私は彼女に恋をしていたのかもしれない。しかし、突然に彼女は失踪してしまう。そこで列車は七尾に到着。また乗り換えだ。私ははやる気持ちを抑えて次の列車に飛び込み、再び本を開いた。
そしてなんと言うことだろう。ヒロインは悪人の策略にかかって殺されてしまう。その部分を読んだとき、私は大きな喪失感に打ちのめされた。主人公も打ちひしがれている。最愛の人を亡くしたとき、男も女も大きな喪失感に立ち向かわなくてはならない。恋路海岸の鍋乃は死を選んだ。立ち向かう気力がなければ、安楽への誘惑に負けてしまうものなのだろうか。人は悲しいほど弱い。
しかし、物語の主人公は立ち上がる。死の真相へ向かって突き進んでいく。ヒロインに隠された新たな事実が彼の心を傷つけようとも、けして怯むことはない。その力こそ、ヒロインへの愛情そのものだった。そしてすべてが解決したとき、作者は大きなテーマを提示して、主人公と私を救った。作者はなぜヒロインを死なせたのか。その喪失感があればこそ説得できるテーマ、そこには大きなメッセージが込められていた。列車の中という環境が、私の感受性を敏感にしていたのかもしれない。私は泣いていた。本を読んで泣くなんて久しぶりだ。私の心の深淵が、少し癒された気がした。
夜の車内は安心して泣ける場所かもしれない。
幸いなことに乗客が少なく、冴えない中年男の泣き顔を他人に知られずに済んだ。のと鉄道の5時間は、本のタイトルとその感動を組み合わせて、私の記憶に刻まれることになった。列車はもうすぐ金沢に着こうとしている。5時間を耐えしのぐ策として、重いハードカバーの本を持ってきたことは正解だった。もう私は禅寺に行こうとは思わない。未知の鉄路の旅を続けよう。
明日も、その後もずっと。
第95回以降の行程図
(GIFファイル)
-…つづく