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■新・汽車旅日記~平成ニッポン、いい日々旅立ち
 
第348回:熊が出る駅、彼氏の夢 -大井川鐡道井川線 2-
更新日2010/09/23


湖畔の駅「アプトいちしろ」に列車が停まった。車内放送で「後部に機関車を連結します」と案内される。カメラを持った人が数人、ホームに降りて歩いていく。私もそれに倣った。線路を見下ろすと、2本のレールの間に歯車付きのレールがあった。この歯車と、機関車側の歯車を組み合わせて急勾配を上る仕組みだ。後方から機関車がやってくる。妙に縦長な気がする。そして電気機関車だ。大きな動力と複雑な機構を内包するため、機関車を大きくしたらしい。この区間は新しく造られたから、電化してこの機関車を使うという前提で、大きなトンネルを掘ったのだろう。


アプトいちしろで補機を連結。


アプト区間を上っていく。

アプトいちしろ駅のそばにある湖は大井川ダムだ。この次に見えるダムが長島ダムで、長島ダムを造るために井川線は新ルートに付け替えられた。新線区間はトンネルがなく、山肌に張り付くような線路である。しかしカーブは緩やかだ。眼下に大井川、そしてその対岸に広場がある。案内放送によると、その広場の東屋が旧ルートの駅の跡だという。広場が後ろに去っていくと、やがて大きなコンクリートの壁が見えた。これが長島ダムだ。最寄り駅も長島ダムで、アプト機関車が切り離された。今度は見に行かなかったけれど、電気機関車の前の踏切を降車客が渡っていくので、切り離されたとわかった。


広場の奥の建物が旧駅。


長島ダムの巨大堤防が現れた。

新線区間はまだ続く。ひらんだ駅を過ぎ、トンネルをくぐって鉄橋を渡る。大井川の水は少ないけれど、ここはダムだからたっぷりと水がある。案内放送に従って左手を見れば旧線の鉄橋が見えた。こちらの線路は島のような土地に上がり、奥大井湖上駅に着いた。観光写真では湖に浮かぶ島のように紹介されているけれど、実は岬のように尖った対岸である。それだけ大井川が蛇行しているというわけだ。駅を出るとまた鉄橋。そしてトンネル。今度は右手に大井川だ。吊り橋があって、対岸には太鼓橋をいくつもつないだ遊歩道が見える。旧線区間がそのまま遊歩道になっているかもしれない。紅葉の頃に歩いてみたら楽しそうだ。


奥大井湖上駅付近から見た旧線。

接岨峡温泉駅で新線区間が終わる。ここからまた急カーブとトンネルと鉄橋の連続である。川の水面と線路の高さの差が大きくなって、こちらはほとんど山の中になってしまった。次の駅は尾盛。「おもり」と読む。車内放送によると「かつては井川ダム工事関係者の宿舎が多数あったものの、現在は誰も住んでいない」という。それならどうして駅があるのだろうか。登山者か、土地の所有者の見回りか。まさか行方不明者の捜索か……。そんな駅にもトロッコ列車は丁寧に停まっていく。

……と、私の席のそばに座っていたカップルがここで降りた。えっ、と思わず見つめてしまった。そういえば、さっき、彼氏の方が手書きのメモを見ながら「もうすぐ夢が叶う」「小さな頃から……」「子どもの頃の夢が叶うってどんな気持ちだろう」などと話していた。彼の夢の場所はこの駅の近くらしい。しかし人は住んでいないという。いったいどんな状況だろう。そういえば、さっき車窓から線路に平行する吊り橋が見えた。山道は整備されているようだ。

ふたりがホームの反対側に降りてしまったので、車掌が慌てて駆け寄った。切符の回収かと思えばそうではなく、本当にここで降りるのか、という確認だった。彼氏が頷くと、車掌は、「次の上り列車に乗りますよね」と念を押した。彼氏が「はい」というと安堵した表情になり、また強張って、「去年、熊が出たんです。気をつけてください」と言った。

「クマ!!」
彼女が驚く。私もビックリして彼らの方を見た。彼女と私の目が合ってしまった。彼女の口はクマの「マ」を発音したまま、ぱっくりと開いていた。美人だから、ラブコメディの一場面のようだ。そんな顔を向けられたら、私は何か言葉を返さなくちゃいけないと思った。
「だいじょうぶ。そこのお兄ちゃんが守ってくれるよ」
と言うと、彼氏の方が口を引き締めた。

彼の夢はクマの出現くらいでは揺らがない。それにしても、いったい何があるのだろう。こんなことなら「夢が叶う」と小耳に挟んだときに訊ねておけばよかった。ああ気になる。気になるけれど列車は走り出し、後方にぽつんとカップルが残された。真夏日のミステリーの主人公たち。無事で帰ってほしい。


関の沢鉄橋からの眺め。

列車は斜面の森の中。トンネルとトンネルの間隔が短くなった。いくつかのトンネルを出て、突然、空中を走り始める。案内放送が知らせてくれた。ここが絶景ポイントとして有名な"関の沢鉄橋"である。川からの高さは100メートルあって、日本一高い鉄道橋である。日本一短いトンネルはちょっと怪しいけれど、この鉄橋は誰もが認める日本一だ。かつて日本一だった九州の高千穂橋梁が、高千穂鉄道の廃止でその座を明け渡したからである。

井川線の列車は絶景をサービスするため、関の沢鉄橋にさしかかると徐行運転してくれるという。しかし今回は大サービスで、列車が停車した。静かな鉄橋上に風が吹く。窓から身を乗り出して下を覗いてみたけれど、木々が葉を繁らせていて川面が見えにくい。こんもりと緑のクッションがあるようで、高さを感じない。きっと谷が狭いからだろう。私は高校生の頃に高千穂橋梁を通ったけれど、あちらは距離も長くてかなり怖かったと記憶している。ここも葉の落ちる時期、秋から冬だったらスリルがあるだろう。わたらせ渓谷鐵道もそうだが、谷を上っていく路線はやっぱり秋がいい。

終点のひとつ手前、閑蔵駅も静かな山の中である。携帯電話に地図を表示させると、尾盛駅と違って近くに民家がある。ただし列車の乗降客はなかった。井川線の駅は、登山者が身体を休める山小屋のような存在である。何事もない場所に、列車が停まり、走り去って、また何事もなくそこに存在する。ふだんは誰も使わない。しかし、そこにあるだけで、誰かを安心させてくれる場所。

閑蔵駅付近のトンネルの入り口に"42"と書いてあった。千頭から数えて42番目だろうか。たしかトンネルは全部で61だった。では、ここから終点の井川まで19のトンネルがあるという勘定だ。最後の区間はかなり長いらしい。時刻表を調べると、営業キロは5.0だった。やはり井川線の中でもっとも長い駅間だ。他はだいたい2キロ前後である。


井川駅に到着
客ホームは引き込み線側にある。

終点の井川駅はしっとりとした佇まいであった。雨上がりの森の匂いがする。つまり、湿気があり、そして暑い。ダム湖があるような場所なら涼しいと期待していたが、2010年8月の猛暑は日本をくまなく温めてしまったらしい。列車が停まれば風も止まる。ホームを歩けば汗が噴き出す。

改札口に向かうと、ホームの端に分岐があり、一方の線路がトンネルに続いている。運転士さんが通りがかったので、あれは何かと訊ねたら、かつてはこのトンネルの向こうに駅があり、そこでダムの資材を積み降ろしたそうだ。現在は使われていないという。そう言われると見物したい。しかしフェンスで閉ざされている。とりあえず改札を通った。

駅舎も山の中である。片側1車線の道路があるけれど、近くに何かあるわけではなさそうだ。看板に"井川ダム展示館"の表記を見つけたので、ダムを見物に行く。14時ちょうどに到着した列車は25分後に折り返してしまう。それには間に合わないだろうから、次の列車で帰る予定だ。発車時刻は16時ちょうど。これが井川駅発の最終列車であった。片道1時間ほど歩き、何もないと思ったら残り1時間で引き返す。そう決めて歩き出した。幸いにも展示館は徒歩数分だった。汗を拭きつつ入館する。残念ながら冷房は控えめだった。やはり秋に来るべき所だった。


井川ダムは井川駅から徒歩数分。

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2010年08月17日の新規乗車線区
JR: 0.0Km
私鉄: 64.9Km

累計乗車線区(達成率)
JR(JNR):18,325.6Km (81.71%)
私鉄: 5,453.9Km (78.68%)
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杉山 淳一
(すぎやま・じゅんいち)
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1967年生まれ。東京出身。東急電鉄沿線在住。1996年よりフリーライターとしてIT、PCゲーム、Eスポーツ方面で活動。現在はほぼ鉄道専門。Webメディア連載「鉄道ニュース週報(マイナビ)」「週刊鉄道経済(ITmedia)」「この鉄道がすごい(文春オンライン)」「月刊乗り鉄話題(ねとらぼ)」などWebメディアに多数執筆。

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