第20回:天国の沙汰も金次第 その3
リューベックに向けて旅立った時、バッハは聖マリエン教会のオルガン奏者が世襲制だと知っていたのだろうか。世襲制?ということは、ブクステフーデ家に入籍することを意味し、それはブクステフーデの末娘、アンナ・マグダレーナと結婚することを意味していた。彼女はは40に手の届く老嬢だった。20歳も年上の、しかも醜女の女性と結婚しなければ、かの有名なブクステフーデの跡を継ぎ、聖マリエン教会のオルガン奏者になれない…ということが判っていたのだろうか。
その2年ほど前に、ヘンデルとマッテゾンの二人がリューベック詣でをし、大年増で醜女(これは私の想像だが)に恐れをなして、ご辞退申し上げた事実がある。ヘンデルとマッテゾン、そしてバッハが恐れをなし、結婚を尻込みした大ブクステフーデの娘、醜女と言われている年増、40近い(平均寿命が50歳前後だった当時、40歳は晩年になるが…)の肖像画を探したが、見つけることができなかった。
多分に覗き見趣味的ではあるが、大ブクステフーデの娘、アンナ・マグダレーナがどんな容姿だったのか見たい、知りたいと思う。リューベックの聖マリエン教会で偉大なブクステフーデの跡を継ぐというこんな美味しい話を反故にするほどの大年増の醜女だったのだろうか。若い芸術家にとって、年上の女性を伴侶に持つことは必ずしもマイナスとは言えない。それは今も昔も変わらない…と思う。年上の女性は若い芸術家に献身的に尽くしてくれる可能性の方が高い。彼女が嫉妬深くなければ、若き芸術家は存分に羽ばたけるのだ。
だが、歴史はこの大ブクステフーデの娘アンナ・マグダレーナに、大年増の醜女というレッテルを貼ってしまったのだ。
バッハはこのブクステフーデ詣でから、テューリンゲンの田舎町にいては決して学ぶことができない多くのことを身に付けたと言われている。それはオルガンの演奏、作曲だけでなく、教会の管弦楽団に加わりヴィオラ、ヴァイオリンを弾き、指揮まで務め、バッハは音楽に耽り、乾き切ったスポンジのように、ブクステフーデのすべてを吸収しようとしたことだろう。老ブクステフーデもバッハの才能を認め、我が子のように扱ったと言われている。
バッハは大ブクステフーデの娘アンナ・マグダレーナに怖気を震ったかどうか、アルンシュタットに戻り、その後、マリア・バルバラと結婚した。
以前、書いたように1707年22歳のバッハは、ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会のオルガン弾きになるのだが、この時の給料は年85グルデンだったから、アルンシュタットのおよそ倍になった。ミュールハウゼンを去らなければならなくなった経緯も以前書いたが、次の仕事、ワイマールの宮廷に雇われた時の年給は150フローリンだった。ワイマールにバッハは9年余り勤め、随時増給され最終年1717年には250フローリンを貰うまでになった。
この貨幣の単位フローリンは、元々イタリアのフィレンツェで製造、発行されていた金貨だが、文化国家を自認していたワイマールでは、イタリアの文化、芸術、貨幣制度を導入していたのだろう。
ワイマール宮廷の兄弟間の権力闘争に巻き込まれ、バッハはひと月足らずとはいえ、牢にぶち込まれている。
それから、管弦楽で実りの多いケーテン時代(1717年-1723年).を迎える。多分にマザコン的ゲージュツ愛好家のレオポルドは、バッハを宮廷楽長という職名、しかも400ターレルという超高給で迎えた(バッハがライプツィヒに去る年である1723年には、600ターレル取っていた)。これはアルンシュタットでの10倍に当たる給与である。
ハンブルグ、聖ヤコブ教会のパイプオルガン
アルプ・シュニットガーの名作と言われ、60のスライダー(ストップ)と4,000本の
パイプを持つ今でもヨーロッパ最大、最高のオルガンと言われている。
大戦中空襲から守るため、このパイプを外し、地下に保存した。
バッハは大都市ハンブルグの聖ヤコブ教会のオルガニストに応募している。1720年、妻マリア・バルバラを亡くして2ヵ月後のことだ。形式的なことではあるが、一応他の応募者と公平を期すため試験演奏をする、その結果、聖職者議会が決定を下すという条件だった。応募者は7人いた。だが、いずれもバッハの足元にも及ばない雑魚だった。
審査官の中にバッハが尊敬していたアダム・ラインケンがいた。彼は80歳近かったが、聴力は依然として若年のままだったと言われている。バッハはラインケンの手になる『バビロンの流れのほとりに』を演奏した。彼の演奏は、聴く者、誰しもを圧倒した。
バッハが尊敬してやまないラインケンの残されたオルガン曲は少ない。それはラインケンが即興演奏を得意とし、曲想が浮かぶと、連鎖的に丁度ジャズのアドリブ演奏のように触発されたイメージを次々と展開させていったからだと言われている。バッハにもそのような即興演奏の才能があった。
だが、バッハには決定的なモノがなかった。上納金とでも言えばいいのだろうか、2,000ターレルと言われている金を、聖ヤコブ教会の新任オルガニストは教会に収めることになっていたのだが、そんな大金を持っていなかったのだ。ラインケンは、「聖ヤコブ教会は金で神聖な音楽を汚した」と嘆いたが、聖職者参事らは教会の音楽性より入ってくる金を取ったのだった。
アダム・ラインケン 、偉大なオルガン奏者であり、作曲家
結果、聖ヤコブ教会のオルガニストには、ヨハン・ヨアヒム・ハイトマンという金満家の息子、凡庸なオルガニストに与えられたのだった。
マルティン・ルターが宗教改革を打ち出した時、カトリックが募金で、金貨が賽銭箱に落ちる時に鳴る“チーン”という音が神様の耳に届き、そしてあなたたちは天国に導かれるという荒唐無稽な募金政策を強烈に非難したのが契機になったはずだが、200年後、ブロテスタントの教会も金なくして存続しえない状況に陥っていったのだ。
-…つづく
第21回:ライプツィヒ、聖トーマス教会のカントル職 その1
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