サラセンとキリスト教徒軍騎士たちが入り乱れ
絶世の美女、麗しのアンジェリーカを巡って繰り広げる
イタリアルネサンス文学を代表する大冒険ロマンを
ギュスターヴ・ドレの絵と共に楽しむ
谷口 江里也 文
ルドヴィコ・アリオスト 原作
ギュスターヴ・ドレ 絵
第 7 歌 邪悪な魔女アルチーナ
第 1 話: 妖艶な美女
さて、この道を行けと銀梅花の木に姿を変えられたアストルフォから示された森の中の道を進んだ凛々しき騎士ルッジェロが、行く手に現れた無数の奇妙な怪物たちにうんざりしていると、そんなルッジェロの前に美女が現れ、その道は行かずにこちらへと、誘うかのようにして惜しみなく魅力を振り撒きつつルッジェロに擦り寄ってきたところまでは前回お話しいたしました。
邪悪な魔女アルチーナに銀梅花の木に変えられてしまったアストルフォに忠告されたにも拘わらず、目の前に美女が現れると、つい何もかも忘れてしまうのは男というものの悲しい性。凛々しき騎士ルッジェロといえどやはり男。何を企んでいるかもしれぬ美女に誘われるまま、別の道へと進んでしまったのでした。
人間というのは実に身勝手な動物。自分が見たものは、それがどんなに不思議なことでも現実のこととして信じるけれども、人が話してくれた不思議な話に関しては、きっと嘘だろうと疑ってかかる。そんな身勝手さが、我らの凛々しき騎士ルッジェロにもあるなどとは思いたくはないけれど、媚びを売る絶世の美女を目の前にして、アストルフォの忠告も、どうやら想い姫の清廉な乙女騎士ブラダマンテへの愛も、どこかに置き忘れてしまったかのようなルッジェロが、館の中で美女をいざ抱き寄せようとしたその時、妖艶な美女が、まるで手懐けた飼い犬におあづけを命ずるかのように、ちょっとお待ちくださいその前に、遍歴の騎士さまにお願いがあるのです、と言ったのだった。
それを聞いたルッジェロ、淑女の頼みであれば内容を問わずに承知したと受けてこその騎士、とばかりに、承知いたしたその願い、と何も考えずに勢い込んで答えたのだった。
すると妖艶な美女は、闘うために鎧兜をつけ槍を持ったルッジェロの手を取り、城から庭に出ると、庭の端にある川に架けられた橋のところに案内してこう言った。
私たちがこの橋を渡ろうとすると
獰猛な女戦士エリフィッラが現れ
決して橋を渡らせないのです。
だからエリフィッラを退治して欲しいのです。
そう言われてルッジェロが橋に足をかけた途端、そのエリフィッラが現れた。それにしても奇怪なのは女戦士のその姿。鈍い光を放つ見事な鎧兜には、ルビーやエメラルドやトパーズなどの宝石が象眼されていたが、それより何より、エリフィッラが跨っていたのは馬ではなく巨大な狼だった。
ルッジェロがあっけにとられていると、獰猛な女戦士はいきなり槍を水平に構え、ものすごい地響きをあげてルッジェロめがけて突進してきた。ルッジェロも身構え突進してきた女戦士の喉当てをめがけて槍を突き出すと、サラセンの騎士たちの中でも突出した武芸者ルッジェロの槍をまともに受けた女戦士はあっさりと狼の背から突き落とされて失命した。
ありがとうございます。
これで私たちは安心して自由に橋を渡ることができます。
そういうと妖艶な美女は、その魅力をさらに振りまきながら、ウットリとするルッジェロを城の奥の院へと案内した。
そこに現れた女性の美しいこと美しいこと。淡い金色の長い髪、白磁のような白い肌、吸い込まれるような眼差しがルッジェロの目と心を魅了し、その姿はまるでギリシャの女神のよう。頬がほんのりとピンク色に染まり、バラの花びらのような唇は情愛を湛え、それがわずかに開けば、そこからこぼれる真珠のような小さな白い歯。微笑みかけられれば、もうそれだけで天国にいる心地。
愛の天使キューピッドさえ、その魅力に手なづけられて、彼女の意のままに愛の矢を射る従者になってしまったかのよう。しばしルッジェロは我を忘れて夢心地、それどころか思い姫のブラダマンテのことさえ、どうやらすっかり忘れてしまっているよう。
それもそのはず、この妖艶な美女こそ、アストルフォからくれぐれも惑わされぬよう言い含められていた邪悪な魔女アルチーナだった。つまりルッジェロはこの時、すでに彼女の魔法にかけられていたのだった。
さてどうなるルッジェロ、このまま邪悪な魔女の虜になってしまうのか。この続きは第7歌、第2話にて。
-…つづく