第473回:日本の百歳のお母さん
義理のお母さんが100歳まで後21日というところで、亡くなりました。100歳のお祝いをしようと、義理のお姉さんたちが色々計画を立てていたようですが。
お母さんは早くに夫を亡くし、それから文字通り女手ひとつで5人の子供を育ててきましたから、ウチのダンナさんがいつも言うように"貧乏の子沢山"を絵に描いたような生活だったのでしょう。いまだにダンナさん"貧乏の話なら誰にも負けないぞ"と変な自慢をするくらいです。
それでいて、お母さんの口から、苦労話、愚痴のたぐいをまったく聞いたことがありません。きっと素晴らしい"記憶のフィルター"を持っていて、良い思い出だけが残ったのでしょう。常に明るく、楽観的、よくジョーダンを言い、笑い、肯定的な人でした。
三十数年前、日本で初めてダンナさんの家族に会った時も、変な外人の私を真っ先に受け入れてくれたはお母さんでした。外人扱いせず、至極普通の人間として接してくれたのです。私の日本語も今ほどでなく、おぼつかないものでしたし、お母さんの方も英語は全くダメでしたが、二人でとても愉快に過ごすことができたのは、お母さんの持つ天性の自然な態度に助けられたからでしょう。"Good
morning. This is a newspaper." と、私の読めない新聞を手渡してくれたり、どこで何時覚えたのでしょう
"Kiss of Fire" とか言って、私を驚かせました。
死に目には会えませんでしたが、亡くなる一週間ほど前、お母さんの傍で10日間ほど過ごすことができたのは、私にとって最高の思い出になりました。その時、もうすでに起き上がることができず、点滴を受け、寝てばかりの状態でしたが、時々目を開け、はっきりした口調で「よく来たね。どこに泊まっているの?」とか、彼女がやっと飲み込んでいる流動食を、「ホレ、食べなさい」と私に勧めたりするのです。そんな時でも、周りの人に対する気遣いを忘れませんでした。
寝ている彼女の目線にちょうど私の脚があったのでしょう、「脚、細いね~」が私が聞いたお母さんの最後の言葉になりました。
後、もう少しで100歳…という悔いはほんの少しですが残りますが、お母さんは本当に天寿をまっとうしたと言ってよいでしょう。周りを明るく照らしながら生きた、立派な生涯だったと思います。
私も、お母さんのような老人になりたいと思いました。
今回、あまりに個人的過ぎるエッセイになってしまったことをお許しください。でも、お母さんの死に方、生き方に強く大きい衝撃を受けてしまい、ほかのことを書くことができませんでした。
お母さん、どうか安らかにお休みください。と書いてから、お母さんの「何を辛気くさいこと言ってるの、死んだらそれで終わり、ジ エンド。より良く生きることのほうが大事だよ」というお母さんの声が聞こえてきそうです。
第474回:アメリカ中西部にある小さな教会のホームカミング
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