第866回:中世に引き戻された学校教育
アメリカは50の州からなる合衆国(合州国)であり、軍事、外交だけは合衆国政府が司りますが、裁判、民事、教育、社会保障など、州により大きく異なり、その州独自の政策を取ります。一応のガイドライン、方針は合衆国政府が決めますが、各州がそれを守り、施行するかどうかは別の問題で、ある法案を全く無視する州も出てきます。それでいて、法的な処置、早く言えば、ある州が合衆国の規則を破っても罰則をその州に課すことなどできないという、奇妙なシステムで50の州がバラバラに動いています。
以前も書きましたが、“ダーウィンの進化論”(Charles Darwin)は、聖書の内容と相反するから公立の学校図書館から“進化論”関係の本を追放する法案を成立させる州が保守的な南部に続出しました。
テネシー州では、進化論を高校で教えた先生が逮捕され、有罪にさえなってさえいます。進化論を信じるか、信じないというのは学問、生態や遺伝学の裏付けがあるかないかは別にして、ともかく聖書に書いてあることと違うこと、別の意見を持つことが許されないという、ガチガチの教条主義者が増え、政治的な力まで及ぼし始めたのです。
そして今度は、“汝、殺すなかれ……”で知られている聖書の“十戒”を各教室に張り出さなければならない、とルイジアナ州が決定し、続々と他の州もそれに倣い始める傾向が見え出しました。この法案で規定されるのは、今のところ公立の学校だけですが、子供たちの80%以上は公立の小中高学校に通っています。
この法案はまだ私立の学校には及んでいませんが、私立の100%近くがカトリックなどのキリスト教関係の学校ですから、“十戒”を壁に貼り出すどころか、あのキリストがハリツケになっている血生臭い十字架を飾り、毎日キリスト教的アーメンを唱えなければならいのでしょうね。
十戒はモーゼがエジプトから自分の種族、イスラエル人を引き連れ紅海を渡った後、イスラエル人は喜び溢れ、喜びすぎたのかどうか、金の偶像を作り、それを崇め、飲めや騒げの饗宴を繰り広げた時、モーゼがシナイ山で神の啓示を受けて(神が直接遣わしたとの説もある)二枚の石に刻んだ十の戒律です。一説によると、モーゼは二度神から石に刻んだ十戒を渡されていて、最初の十戒は偶像崇拝に狂うイスラエル人に怒り、モーゼ自身が叩き割っている…と言われています。
その十戒ですが、もちろん古代ヘブライ語で書かれていましたが、宗派によって微妙に異なります。カトリックとルーテル派は一致をみていますが、大元、本家のヘブライ語聖書、タハナの方は順番、番号が付いておらず、一番最初に書かれているのは“私こそは主、神であり、あなたたちを奴隷の身分から救い出した者である”となっているところ、正教会、聖公会、プロテスタント、カトリック、ウェストミンスター・レーニングラード写本では、ただ単に“私以外の神はない”という表現のバリエーションになっています。
まさか、アメリカの小中高学校の教室に大元、本家本来のヘブライ語の十戒を掲げていないでしょうから、まず英語の欽定訳(ジェームス一世が47名の聖書学者に命じて英訳させた聖書で、俗にジェームス聖書と呼ばれ、英訳の決定版とされている。1611年刊行)とされているものですが、当然、世界中の言語への翻訳があり、英語版にも多数の“これだけが、本当の訳本だ”というのが存在します。
キリスト教には分派が多数あり、ほとんど新興宗教かカルト宗教に近いものまでアメリカ全土に広がっています。たくさんある十戒のバリエーションの基本路線に大きな違いはないのですが、殺すな、盗むな、父母を敬え、偶像を礼拝するなどと、どこの文化圏でも当たり前のモラルを連ねています。
姦淫するなかれとか隣人の妻を欲してはならないとなると、先生が子供たちにどうやって説明しているのか聞いてみたいものです。ましてや、その先生に離婚歴が3、4回ある場合など、どのように十戒の解釈、説明をしているのか盗み聞きしたいものです。
偶像礼拝に関してはモスレムの方が徹底しているようで、イスラム教ではモハメッドの聖像を祀ったりしません。仏教ではそんな戒律がないようで、大仏さんや仏像が溢れています。しかし、見晴らしの良い高速道路沿いの丘の上の“観音様”、あれはどうにかならないのかしら。
リオ・デ・ジャネイロを見下ろすように巨大なキリスト像は町のシンボルにさえなってはいますが…。キリスト教全般、シンボルである十字架、それに血だらけのキリスト像、祭壇はケバケバしい極彩色の塑像オンパレードで、あれを偶像と呼ばずに何と呼んだら良いのだと言いたくなります。もちろん、敬虔な教徒はあれは偶像ではなく聖像であると思い込んでいるのでしょうけど。偶像と聖像の違いは、その宗教を信じているかどうかだけなのです。偶像を崇め奉るな!という戒律を厳格に守らなかったオカゲで私たちは、現在、数多くの彫刻、絵画を観ることができるのですが…。
十戒の戒律が全く守られてこなかったことは歴史上明白なことです。逆に、神の名において殺戮が繰り広げられてきたと言った方が当たっているでしょう。どうにも神様、人間は放っておくとすぐに殺し合いを始めるから、訓戒をたれたのかもしれません。人間はすぐにも姦淫に走り、隣人の妻を寝取るどうしようもない生き物だから、ここらでシカと締めておく必要がある…と、神様は人間の本性を捉えていたのでしょうね。
ウチのダンナさんは、「“汝、殺すなかれ”、と教えられた奴らが軍隊に入り、平気で対戦相手を殺し、英雄になるような宗教を信じられるか!」と、十戒だけでなく、聖書そのものを否定していますが、その割にバッハの音楽や宗教音楽などにのめり込むほど大好きなようです。「神様も音楽に淫するなとは言っていないべや…」と訳の分からない釈明をしていますが…。
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