第38回:イビサ商売事情~ウチの人とソトの人 1

夏のピークシーズンの夜、港に近い通りは歩くだけでも大変(参考)
イビサは夏のヴァカンスの島だ。夏場には人口が一挙に5倍から8倍にもなり、ピーク時には、どこの、どんなホテル、ペンションでも満員になり、レストラン、カフェー、バーも席を見つけるのがとても難しくなる。島の人たちが夏の狂奏曲と呼ぶ季節だ。6月半ばから9月半ばまでがこの島の掻き入れ時で、その期間にいかに効率よくモウケルかがイビサで生き残るカギになる。
『カサ・デ・バンブー』は少し違うところを狙った。テーブルは6脚だけ、しかも相当広いスペースをあけて置いた。一度足をここに踏み入れ、テーブルに着いた以上はゆっくりとくつろいで貰おうという意図だった。このようなショーバイでは要(カナメ)となる“回転”を最初から無視したのだ。と言うのは、このロケーションでは流れの客は全く期待できなかったから、常連、リピーター、そして口コミでやってくる顧客を増やすことで勝負するしかないと判断したのだ。
この目論見は半ば当たった。だが、ショーバイとしては夏場、『カサ・デ・バンブー』はいつ行っても満員で席が取れない…というので帰してしまったお客さんも多かったし、外見では、大流行の店のように思われたが、その実、シーズン終わりの収支決算では、どうにか赤字にならない程度だった。まあ、それでも良いか…と思っていたのだが…。
毎年、開けるのは4月初旬のイースター(セマナ・サンタ)前で、毎年イースター休暇にやって来るドイツ人、イギリス人、後にスペイン人が多くなってきたが、イビサに別荘やアパートなどを持つ人たちのためだ。そして10月の半ばに閉めた。“半年働いて、後の半年遊ぶ良い商売…”と言えなくもない。
こんな小さなカフェテリアで、しかも半年だけのシゴトなのだが、オステレリア(hostelería;飲食観光業界)、つまりホテルやペンション、大きな老舗のレストランなど、観光客を受け入れ、もてなす側に立つ者とみなされるようになった。これは私が意図したわけではなく、3年目くらいから、同業者の知り合いも増え、毎年、シーズン前に通うお役所の面々とも顔なじみになり、ワインの卸屋、肉屋、八百屋など、市場に店を出している人とも顔なじみになり、あの東洋人はマメにマジメに働く…程度に知れ渡っていたようなのだ。
自然、様々な仕事を持ち掛けられるようにもなった。 『バール・エストレージャ(Bar Estrella)』は船つき場、フェリーターミナルのまん前にある老舗バーだ。そこの親父のオーナーが、ターミナルの中のカフェテリア、バーの権利を持っているから、私にやってみないか、ノウハウ、それに道具一式も提供するという、美味しい話を持ち掛けてきたこともある。そんな話がシーズンオフに何件かあった。
傑作だったのは、49ccのモペット(Moped;Mobylette:小型バイク)に違反とは知りながら二人乗りをして、ヴァラ・デ・レイ通りに差し掛かった時だった。一人のお巡りさんが、笛を鋭く吹いて、私に止まるよう指示したのだ。その時、道路の反対側にいたもう一人のお巡りさんが、「そいつは、ウチの者だ。放っておけ、構うな!」と叫んだのだ。最初に笛を吹いたお巡りさんは、イビサの夏に本土から助っ人に来たのだろう、そこを、地元のお巡りさんが助けてくれたのだ。
また、一度だけ、盗まれたモペットが戻ってきたこともある。それも、地元のお巡りさんが私のモペットを覚えていて、ジプシーの子供が乗っていたのを止め、回収してくれたのだった。こんな風に、地元の市警だけでなく、国家警察や郵便局にも顔を知られて、アイツは島の人間だと認められるようになったのには、一つの契機があったと思う。
港に近いレストラン、バールやカフェテリアのオーナーが集まったことがる。多発し始めた盗難、泥棒対策が一つと、港内が混み合ってきたので、旧市街から港の入り口に踏切のような棒を渡し、港に入る車を制限する市の方針にどう対応するかが、議題と言えば議題だった。
港への車乗り入れ制限は、配送、配達の車は無条件で許可されるのだが、オーナーたちが昼間、自分で仕入れた野菜、スナック、肉、魚類を積み込んだ車を店まで運ばなければならない、自由に出入りできることが死活問題になる…、そこで、市へ警備の強化と旧市街にレストラン、バーを持つ者に対し、踏切遮断機を自由に通過できる許可証、ステッカーを発行して貰いたい…という要請、陳情を行うことになった。
こんな集会にキチンと顔を出すのは奇妙なほど外人ばかりが多く、どういう理由からか地元のイビセンコが全くいないのだ。港の界隈の地所の持ち主は100%スペイン人、イビセンコのはずだが、ショーバイそのものを司っているのはよそ者が圧倒的に多いということなのだろう。イビセンコ、スペイン人は港にある店の建物、土地を握っていて、相当高い家賃、使用権を取っているのが普通だった。家賃は貰うが、後のことはお前たち勝手にやれ、市との交渉なんぞ、俺たちには関係ない…ということなのだろう。
それに、イビセンコ、スペイン人は体質的に横の繋がりを強化し、最大公約数的な要綱をまとめ、団結することが苦手だ。どうしても自分だけの主張が前面に出てしまい、簡単にまとまる話もまとまらなくなる傾向が強いのだ。
そこへいくと、その時のイビサ港界隈のショーバイ人集会はまとまりがとても良かった。ドイツ人、フランス人、イタリア人、イギリス人、ユダヤ人、アメリカ人などが主に英語で話し合ったのだが、これほど和気あいあいとした集会で、港のパセオ(Paseo;散歩道)でフランス人がやっているカフェ、バーを会場にして、ショーバイ敵、競争相手というような感情は微塵も感じられなかった。皆、自分の店はもちろん一番大事だが、地域全体を盛り上げようとする意図が前面に出ていたと思う。付け加えて、高い家賃と営業税だけ徴収しているイビセンコ、イビサ市役所に対する不満が外国人オーナーの絆を強めていたとも思う。
というのは、イビサのショーバイは夏だけ、戸外の路上のテラスだけが肝心で、店の前の歩道、路上に大きく張り出してテーブル、椅子を置くことになる。そこは公道だから、市の許可が必要で、市に何がしかの使用料、税金を払うのだが、それが毎年のように値上がりしていく不満があったのだ。

テラス席は市役所の許可が必要で、使用料が徴収される
この集会で、パセオ・マリティモ(Paseo maritime)やカジェ・マジョール(Calle Mayor)に軒を並べるカフェやバーが外に流すディスコ、ロック音楽を自主規制するようにしたのはさすがだった。向かい合っているカフェやバーが外に向かってそれぞれに流す音楽を2~4軒に一軒、真ん中の一軒が屋外に出したスピーカーで音楽を流すことにしたのだ。これは私には関係ない事項だったが、社会的に成熟した国の人の物事の進め方に感心させられたことだった。
今もって、どうしてスペイン語も英語も中途半端な私が、この集会の主催者的なフランス人(パブロという名だったと思う)と一緒に市役所に行くことになったのか思い出せない。ともかく、スペイン語が達者で、多少は法律的な知識を持っている…とみなされていたイギリス人のロイが作成したスペイン語の陳情書、嘆願書を持って、城壁の中にある市役所に出向いたのだ。手の良いメッセンジャー・ボーイというところだろうか…。
-…つづく
第39回:イビサ商売事情~ウチの人とソトの人 2
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