ロマンスカーに乗ってきて湯田中駅に降り立つ。小田急と長野電鉄は規模こそ違うが、都心から温泉町へ行くという意味では似ている。改札を出ると旅館や民宿のお迎えがいて、到着予定のお客の名を連呼する。伝統的な温泉町の風景だが、私は今まで古い日本映画でしか見たことがなかった。知人を迎えに来た人も背を伸ばして相手を探す。あちらこちらで喜びの声が起きる。終着駅に降り立って、人と人との挨拶が始まる。いいもんだな、と思う。
ガイド君もお祖父さんに出会えたようだ。お祖母さんがガイド君に、「おじちゃんにお礼を言いなさい」と言った。例を言うのは私のほうだ。「ありがとう。バイバイ」と声をかけ、すぐに歩き出す。一期一会とはいえ別れは苦手だ。
駅舎を出ると肌にひやりと冷気が当たる。はらはらと小さな雪の粒が舞い降りている。ところが太陽も出ており日なたは暖かい。駅前の迎えの車が次々に走り去っていく。私は線路の終端を見るように歩き、旧駅舎を見物した。湯田中駅は最近まで線路2本、対向ホーム式の駅だった。しかし、ロマンスカーの運行を機に湯田中駅は大幅に改良された。かつて長編成の特急がはみ出した踏み切りとスイッチバック式の線路配置を撤去し、長いホーム1本を再配置した。長野電鉄はロマンスカー2編成を小田急電鉄から無償で譲り受けた。しかし、編成の短縮改造も含めて、受け入れるために少なからぬ投資をしている。
旧湯田中駅舎の出札口。
旧湯田中駅舎は昭和2年の開業時から稼働し、現在は有形文化財に指定されている。現在は楓の館と名づけられ、展示会などの交流施設として使われているようだ。建物に入ったが調度品類はなくスッキリしている。内外装の化粧直しが終ったばかりで、出札口のアーチ状の内壁と桟が薄いピンク色に塗られていた。旧駅舎の隣には楓の湯という温泉施設もある。湯に浸かったら長居をしそうなので遠慮する。小さな公園があって、新雪を踏んでみた。東京に積もる雪とは違い、ポクポクと音を立てる。片栗粉のように乾いた雪質だ。
街を歩く。駅前通りの坂を下り、夜間瀬川を渡った。駅前は旅館やホテルが多いが、川の向こう側は民家が多い。その向こうに崖が見える。そこに上ってみようと路地を進むと崖に突き当たる。どうにか上る方法はないかと見渡すと、つづら折の階段を見つけた。しかし近づいてみれば雪に覆われ、足跡がない。ためしに足を踏み入れたけれど、膝頭まで雪に埋まってしまう。歩き回って別のルートを見つけると、そこには立派な国道があって、志賀高原と草津を示す案内板がある。JRがまだ国鉄だった頃、上野から『志賀』と言う名の急行列車が走っていた。その列車の終着駅が長野電鉄の湯田中だった。
湯田中市街。
高いところから湯田中駅周辺を眺めて満足したので駅に戻る。今度は夜間瀬川の上流の橋を渡る。そのあたり、一年前まではロープウェーとリフトが稼働しており、プリンスホテル系列のスキー場へ通じていた。しかし西部グループの経営再建の影響で廃業となった。これは麓の湯田中温泉にとっては打撃だっただろう。それだけに、今年から走り始めたロマンスカーに対する地元の期待は熱いと思われる。幸いにも湯量は豊富らしく、街を歩けばあちらこちらに温泉井戸がある。ロマンスカーの縁で箱根と仲良く提携したらいいのではないか。
民家の屋根から透き通ったつららが伸びている。バスはチェーンを巻いており、タクシーのバンパーにもつららが生えていた。屋根の雪が解け出しているようで、商店の雨どいから勢い良く水がほとばしり、道路の端に川を作っている。温泉町には雪解けに勢いがある。そんな風景を楽しみつつ湯田中駅に戻った。ロマンスカーがいたホームには、営団日比谷線から転職した"まっこうくじら"が待っていた。
私は高校卒業まで東急沿線で暮らした。"まっこうくじら"こと営団3000系は東横線に乗り入れており、私にとっては懐かしい電車だ。私は小布施に立ち寄るつもりだが、この電車は小布施の手前の信州中野止まりだ。信州中野駅はかつて木島線が分岐した駅で、現在も長野線の拠点のひとつで、ほとんどの普通列車がここで折り返す。2002年に廃止された木島線用のホームが残っており、列車の通行がないので線路に雪がかぶっている。私の旅の再開は2003年からだったから、あと1年早ければ乗りに来たはずである。後悔してももう遅い。
まっこうくじらでGo!
長野行きの各駅停車に乗り換えて小布施着。まずは構内の"長電電車広場"を見物する。こげ茶色の機関車1台と電車2台。機関車は1927(昭和2)年生まれのED502型。52年にわたって木材やりんごの運搬で活躍し、1979(昭和54)年に引退した。電車は1926(大正15)年製のデハニ201型。こちらは1980(昭和55)年に引退した。どちらも扉が開いていて室内に入れる。機関車の運転台、電車の座席に座ってみる。機関車の前後の運転台を結ぶ通路も開放されていたけれど、私の身体を縦にしても横にしても入れないほど狭い。当時の日本人はよほど小柄だったのだろう。恨めしく機械室を覗いたけれど、どの機会が何の役目を果たしているのかさっぱりわからない。
小布施の町を歩く。土曜日の昼なのに観光案内所は鍵がかかっている。しかたなく案内板を頼りに小布施ミュージアムを目指す。郷土史や栗菓子の資料館かと思ったら、地元出身の美術家の作品を収録した建物だった。急いで見て回ったが、どうも美術鑑賞は苦手で、立ち止まるほどの出会いはなかった。それよりも付帯施設のような蔵の中が圧巻だ。お祭りで使う山車が保管されており、宮大工の手による造作が見事である。これを見て入館料の元を取った気になった。
小布施駅構内の保存車両。
小布施ミュージアムの祭り屋台。
栗菓子ストリート。
電車の時刻が気になるが、栗菓子屋のある辺りまで足を伸ばした。新聞屋、酒蔵、食事どころなど蔵を模した建物がいくつかあり、ガラス工芸屋、洋菓子屋などがある。栗を使った洋菓子は小布施に新しい風を起こしていそうだ。しかし時間がないので今回は定番の竹風堂に入った。甘いものを一つか二つと思ったら、炊き立ての栗おこわを弁当にしてくれるというので一つ頼んだ。頼んだ後で、『栗ソフトクリーム』の張り紙を見つけた。外は寒いが好奇心が勝つ。渡されたソフトクリームは淡い茶色をしている。洋菓子のモンブランや栗の甘露煮の黄色を想像していたけれど、意外と地味な色だ。そういえばこの店の『栗鹿の子』もこんな色だったな、と思いつつ口に含む。冷たい甘さの奥から栗の香りが立ち上ってくる。あちらこちらに竹風堂の店はあるけれど、ソフトクリームはここだけかもしれない。
懐かしの東急8500系。
ふと時計を見れば次の列車まであと10分を切っていた。アイスクリームを舐めつつ早足で駅に引き返す。発車1分前に改札を通過。改札口の上の電子案内板は次の列車を表示しており、間に合わなかったかと落胆したが、ホームに立っていると予定通りの列車が来てくれた。今度は元東急の8500型である。これも私には懐かしい電車だ。大井町線や田園都市線で現在も活躍中で、高校通学や通勤でよく乗った。東京では10両編成で風を切っていた電車が3両に短縮されている。プラレールの電車セットのようなものだ。かわいいではないか。
小布施から電車で南下すると、須坂駅の手前で長野刑務所が見える。フェンス越しに運動場と屋外作業場があった。さすがに房は見えず、外に出ている人はいない。受刑者が外に出れば電車が見えるのだろうか。電車のお客とメッセージを交換する方法はないものかと考えてみる。たぶん視線を合わせることさえ難しいだろう。それにしても電車が見える刑務所なんて鉄道ファン向きである。私も罪を犯したらここに入れて欲しいなどと、ろくでもないことを考えた。
-…つづく
第230回以降の行程図
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