第90回:井伏さんのいくつかの作品について(1)
更新日2007/02/15
今年の冬は、殊の外暖かい。だから、あまり実感がないのだが、毎年この如月2月の上中旬、1年のうちで最も寒いと感じられる季節になると、井伏鱒二さんを思い出す。彼のお誕生日が、明治31年(1898年)2月15日、ご存命であれば109歳ということになる。
実際は、平成5年(1993年)7月10日に95歳で他界されたので、没後14年が経過している。私は3年前にもこのコラムで、井伏家をご訪問させていただいたことを中心に、井伏さんのことを書かせていただいている。今回の更新日がお誕生日に重なったということもあり、もう一度、今度は氏の作品について少し書かせていただこうと思う。
その前に少し余談だが、私は井伏さんのファンであることで、少しだけホッとしていることがある。啄木が亡くなったのは26歳、私はもうその二倍も生きている。太宰は39歳、もうその一回りもその年齢を越えてしまった。漱石にしても49歳なのだから、それよりも2年も長く生きている。~のに、何もしていない自分がいる、と考えてしまうのだ。
ところが、井伏さんは95歳まで生きておられた。これが安心するのだ。うん、まだまだこれから何かができるぞ、と元気が出てくる。『黒い雨』を発表されたのが67歳の時と聞くと、本当にホッとするのである。
さて、作品について。正直言って私は井伏さんのファンだと言っていながら、氏の膨大な作品群のほんの何割かしか読んでいない。だから、語れるものなど何もないのだけれど、今回は、比較的おなじみの作品について考えてみたいと思う。
『山椒魚』
多くの人がご存じの、いわゆる処女作と言われる作品だが、実は処女作はその原型の「幽閉」という作品で、大正12年(1923年)に発表された。「山椒魚」はそれを書き改めて6年後に発表された。今でも時々話題になるのは、昭和60年(1985年)に出版された井伏さんの「自選集」の中では、山椒魚と蛙が和解する場面の16行をバッサリと切り落としてしまったことだ。
何と発表後60年経って作品を全く違うものにしてしまったことに、文学を愛する多くの人々が驚き、議論し合った。私個人としてもいろいろ考えさせられたが、「創作されたものが一度作者の手を離れれば、それは独立した一個の作品」という考えに、最近は若干疑いを持ちつつある。最初の作品を6年後に書き改め、さらに60年後に再び書き改めるのも、一人の作家の真摯な創作活動のひとつと言えるのではないか。
ただし、氏の没後刊行された筑摩書房の『井伏鱒二全集』には、その16行は掲載されている。私も、和解の部分がある作品の方がよいとは思う。また、今回調べていて分かったことだが、この作品を児童向けに書き改め昭和15年(1940年)発表された、『山椒魚』『セウガク二年生』にも和解の部分がなかったのは大変興味深いことだと思う。
『鯉』
井伏さんは早稲田大学の学生時代、青木南八という親友がいた。彼は怠け者の井伏さんの創作意欲を促したり、あこがれの女性への恋の指南をしてくれたり、誠実で穏やかな、真実よき友であったようだ。
ある日、青木から真白い立派な鯉をもらう。井伏さんはそれを自分の下宿の池に放ったり、青木の恋人の池においてもらったりしていたのだが、それから6年目の初夏、青木が23歳の若さで病死してしまう。
作品はその後、井伏さんの透き通った悲しみとも表現したいような亡き親友への思いが、淡々と、しかしリリカルな文章で綴られていく。私は、学生時代にこのような出会いができたことを実にうらやましく思い、別れの悲しさに思いを馳せながら、もう何回も繰り返し大好きなこの短篇を読んでいる。
『巧助のゐる谷間』
長野県は、前知事の田中康夫氏の政策を大きくひっくり返して、脱「脱ダム」政策を打ち出した。それより80年前、昭和4年(1929年)に発表された、とある谷がダム建設で埋め立てられる様が描かれた作品である。
「巧助」は、作家である「私」の幼い頃のお守りの一人であったが、現在はまもなく埋め立てられてしまう谷に住み、茸類の発生する山の番人をしている。そこへ私が訪れる。また巧助は、日本人の母とアメリカ人の父を持つ少女「タエト」とともに暮らし、彼女の親代わりになっている。
物語は、谷の埋め立てのために、住み慣れた住まいの立ち退きを余儀なくされ、見慣れた風景がわずかな時間で水によって消される老人の心境を中心に、私の美少女タエトへの思いを絡ませながら書きつづられていく。
私とタエトとの関係の描き方が実によいのだ。新潮文庫の解説で亀井勝一郎氏が、「今日の言葉で言えばラブシーン或はエロティズム、乃至はそれに近き場面が描かれているが、このいずれの言葉も妥当ではない。古風に『濡れ場』というわけにはむろんゆかない。強いて言うと、もっと古風に『有るか無きか』(兼好)の恋で、しかも『有る』といった描写だ」と適切に表現してくれている筆遣いである。
私は、いつも「うまいなあ、うまいなあ」と一人唸りながら読み進めていく。それは、何回読んでも同じことなのである。
-…つづく
第91回:井伏さんのいくつかの作品について(2)