第20回:Only "Good-bye" is one's life ~井伏さん宅訪問の記
更新日2004/02/19
2月15日は、作家井伏鱒二さんの誕生日だった。11年前、95歳でお亡くなりになったのだから、今年で生誕106年ということになる。明治、大正、昭和、平成の時代を生き抜き、書き続けたこの作家を、私は最も敬愛している。
私が、太宰治の割合に熱心な読者だったことは、以前のこのコラムにも書いた。その太宰治が比較的安定していた中期に書いた名作『富岳百景』(昭和14年)の中に、井伏鱒二と二人で三つ峠に登ったシーンが出てくる。
太宰治はこの場面を、卓越した描写力を見せながらも、穏やかな筆遣いで描いている。私は、この小説のこの箇所がとても好きだ。その山登りの日から二日後、太宰治は井伏鱒二の勧めに従って甲府に行って見合いをし、見合い相手の石原美智子という女性と、翌年結婚することになる。
もともと井伏鱒二の小説に深く傾倒していた太宰治は、昭和5年の東京大学入学当時「会ってくれなければ自殺する」という内容の脅迫めいた手紙を出し、強引に会う機会を得た。当時、相当屈託した思いを抱いて生活していた太宰治にとって、井伏鱒二と会ったことは大きな励ましになり、それ以後ずっと師事することになった。
私はあの天才作家太宰治が師と仰ぐ井伏鱒二とは、一体どんな作家なんだろうという気持ちから井伏さんの作品を読み出した。だから、私に井伏鱒二を紹介してくれたのは、太宰治だった。
その後、何冊かの文庫本を読み続け、いつのまにか私は井伏さんの作品の大ファンになっていた。そして、井伏さんの卒寿の日(昭和63年2月15日)に、彼の作品『荻窪風土記』を写本し始めた。この作品は、井伏さんが昭和2年夏に杉並区の荻窪の四面道近くに引っ越してから五十有余年、半生の思いを込めた自伝的な長編で、昭和57年、氏が84歳の時刊行された。
私は、井伏さんの文章のリズム、息遣い、そして句読点の打ち方までを、実際自分のペンでなぞってみようと、毎日少しずつ書き写していった。そのうちに、私は井伏さん本人にどうしても会ってみたい気がしてきた。だんだんとその思いが高じて、私はとうとうその翌年の氏の誕生日に、荻窪のご自宅をお訪ねした。
今考えるとかなりの蛮行だった。もう30歳をとうに過ぎていたから、若気の至りと言えるものではない。凛として静かな佇まいでありながら、井伏さんのお宅らしくどこか暖かみを感じるお家の門にあるインターフォンを押し、「今まで面識のない一読者ですが、お誕生日のお祝いを申し上げに参りました」と告げた。夜の7時をまわっていた。
受話器に出られたのは奥様の節代夫人だった。あちらにしてみれば文字通りどこの馬の骨かわからない者がアポイントなしに来訪したのである。私は端から門前払いは覚悟していたのだが、穏やかな声で「少しお待ちください」という声が返ってきた。
夫人は割烹着姿だった。そして、門まで出てきてくださり「わざわざお越しいただきありがとうございます。ところが、申し訳ないことに主人はもう就寝してしまいました」とお話しされた。
私は突然の訪問を詫びた後、いつもご主人の作品を読ませていただいていること、一年前から『荻窪風土記』の写本をしていることなどを、お相手いただいたことのうれしさから興奮気味にお話しした。夫人は終始にこやかに応対くださり、最後には「どうぞ、夜道なので、足元気をつけてお帰りください」と言って見送ってくださった。
次の年のお誕生日にもお訪ねした。夫人は私を憶えていてくださり喜んでいただいたのだが、井伏さんはやはりもう眠っていらっしゃった。そのまた翌年の2月15日、訪れる時刻を早めるよう(当時サラリーマンだったため)私は有給休暇を取って、午後の3時頃井伏家を訪ねた。
「今日はあなたにお会いいただけるわね。今筑摩の編集の方々がいらっしゃっていて、主人と何か打ち合わせをしているんです。もうすぐ終わりそうですから、あなた、申し訳ないけど縁側にお掛けになってお待ちいただけますか」
夫人が、明るくそうおっしゃった。私は井伏さんにお会いする目的で来て、二年越しにそれが実現するのにも関わらず、妙にそわそわした気分になった。このまま帰ってしまおうかなと思うほど頼りない気持ちで、落ちつきなく縁側に座っていた。
しばらくすると、玄関先で筑摩書房の編集者の方が3、4人挨拶をし、帰って行かれた。(後になって考えると、これは井伏さんが亡くなった後出版された、最後の「井伏鱒二全集」の編集打ち合わせだったようだ。この全集を、私としてはかなり奮発して購入し、唯一私の財産と呼べるものになっている)そして、夫人の「どうぞ」の声が聞こえた。
深く頭を下げて、玄関の引き戸から中に入ると、そこに井伏さんが立っておられた。いくぶん緊張されたような少し赤みを差したお顔の中で、目だけがぱちくりぱちくり忙しく開け閉じされ、こちらを見つめられておられる。私は早口に、
「井伏さん、お誕生日おめでとうございます。いつもすばらしい作品を読ませていただきありがとうございます。どうぞお身体を大切に、今後もよい作品を書き続けてください」
と述べた。何のことはない、小学校の学年代表のあいさつのような文句を並べただけだった。会う前は、できれば創作のヒントになるようなことを聞いてみようとかいろいろ考えていたが、実際に出てきた言葉は紋切り型の口上だけだ。
それでも、井伏さんに「ああ、ありがとう。どうもありがとう」と言っていただいたときはとてもうれしかった。井伏さん93歳のお誕生日、私が最初に氏にお会いした日、そして最後にお会いした日だった。
その翌年は、体調が優れないと早めに眠っておられたようだった。そして、そのまた翌年の平成5年に私がお訪ねしたとき、夫人はこうおっしゃった。
「あなた、来てくださるのが遅かったわ。もう少し早い時期だったらお会いいただけたかも知れないけれど、今はもうどなたともお会いできなくなってしまったの。ずっと床に就いたままなのよ」
その年の7月10日、井伏さんは他界された。95歳だった。
新聞は、「サヨナラ」ダケガ人生ダ-作家井伏鱒二氏逝く という見出しを付けた。
この「サヨナラ」ダケガ人生ダは、井伏さんの言葉として有名だが、実は漢詩の翻訳として書かれたものだということはあまり知られていない。「中島健蔵に」という友人中島氏が書いた文章に対する挨拶という形で書かれた作品中、数編の五言絶句の漢詩を翻訳した中のひとつなのである。
于武陵の『勧酒』という詩を訳したこの「作品」が、驚くほど井伏さんの心情が表されている気がして、私もたいへん好きなものなので、最後にここにご紹介したい。
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
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