第66回:サンドラとその家族 その2
今思うと、どうしてアントン、ジョランダとオフシーズンにマドリッドに行く度に会っていたのか、何が私たちを結び付けていたのか不思議な気がする。
アントンとジョランダはイビサ常駐組ではなかった。9月ひと月の休暇の間でも、『カサ・デ・バンブー』に入り浸っていたわけでなかった。アントンが関わっているスペイン、ドイツ文学の話をした覚えもないし、ジョランダが趣味、本職としている絵画については、私がアキメクラだった。
それでいて、マドリッドで会えば、とても歓待してくれた。彼らのピソ(マンション)で、ジョランダが意匠を凝らした料理をご馳走してくれたり、国会議事堂近くの老舗のドイツレストランやティルソ・デ・モリーナ駅界隈の演劇人がよく出入りするカフェに連れて行ってくれもした。3人で“サラ・デ・フィエスタ”(Sala de Fiesta)と呼ばれているナイトクラブに出かけたこともある。マドリッド郊外にオープンしたカジノへ乗り込んだりもした。
そんな時、娘のサンドラはアントンの妹ベルビンのところに行くか、ベビーシッターが彼らのピソにやってきて、残されるのだった。そんな時でも、「どこに行くの?」「私も連れて行って…」と、サンドラは決してやらなかった。
少女になった頃のサンドラ
毎年、9月の第1週に、彼らがロセジョーアパートに到着し、荷を解くより早く、サンドラが『カサ・デ・バンブー』に駆けつけてくるのだった。そして、両親と一緒の時、周りに大人ばかりの時とは打って変わって、まるで今まで溜まった報告を一挙にするかのように、私相手にしゃべりまくるのだった。
ドイツ語学校のこと、家の中で飼っている犬ドフィー(小型ハッシュパピー)を外に連れ出し、散歩させ、排便させるのが彼女の仕事になったこと、飼っていた小鳥が一羽死んだこと、アントンが新しい車を買ったことなどなど、順序良く丁寧に話すのだった。
サンドラが木登りをしたイチジクの木
『カサ・デ・バンブー』に大きなイチジクの木があった。いつの頃からか木に登りイチジクの実を収穫するのはサンドラの仕事になった。私は下で、サンドラが落としてくるイチジクをキャッチするのだ。ジョランダがサンドラを探しにやってきて、サンドラが木登りをしているのを見つけ、「オヤマア~、サンドラを女忍者にするつもりなのね…」と呆れながら、サンドラが落としてくれたイチジクを食べたりした。
サンドラはじき、ビキニの上、胸の方も着ける歳になった。彼女は父親、アントンに顔も体つきも似てきて、大つくりな顔立ちにギョロ目と呼びたくなるほどの丸い眼をクリクリ動かしながらおしゃべりをするのだった。美形のジョランダの良いところを引き継がず、不幸なことにアントンにピッタリ似てしまったのだ。
この年頃の少女の成長は驚くほどの早く、半年、1年見ない内に背丈も体つきもグングン伸び、幼女から少女に変わっていくのだった。ただ話し方、笑い顔だけは変わらなかった。サンドラは相変わらず一人で歩き回り、ジョランダはツバの大きなムギワラ帽にファッショナブルなエプロンを付け、3脚を立て風景画を描いていた。彼女の描く絵よりも、絵を描いているジョランダ自身が一幅の絵になりそうだと思ったりした。アントンは期限の迫った翻訳に忙しい…とサンドラが報告してくれたりした。
マドリードにあるプラド美術館
何年目か、私のさっぱり上達しないスペイン語がどうにか日常生活に不自由しない程度に通用するようになり、冬場のマドリッドで、友人のピンチヒッターとして、日本人相手の観光ガイドをやったことがある。
朋友に教えを乞い、カンニングペーパーのようなトラの巻ノートを作り、冷や汗もののガイド業の真似事をしたのだ。その時、プラド美術館でゴヤの模写をしていたジョランダに逢ったのだ。いつものごとくハイファッションに身を固め、頑丈な三脚イーグルを立て、私の目から見て、どちらが本物か判然としないほど克明に描き写していたのだ。私はジョランダがこんな精巧な模写ができるとは想像もしていなかった。
私の方から声をかけたと思う。そして、つい「ジョランダ、こんな模写ができるんだ…」と言ってしまった。彼女は私にプラドで出会ったことを大げさなほど喜び、「貴方の方こそ、何しているの?」と言いながら私の両頬にキスし、「こんな模写は誰にでもできることよ、それに良い勉強になるし、おまけに結構良いお金になるのよ、私自身の絵より高いのよ」とあけすけに言うのだった。何でも大金持ちが誰それのどの絵を模写してもらいたいと注文し、相当のお金を払うことのようだった。
「彼女はガイドさんの良い人かい? 頬っぺたに口紅が付いていますよ…」と、お客さんに冷やかされたことだ。
サンドラはアレヨという間に少女から大人じみた身体つきになっていった。大柄で肉付きが良い、というよりデブの領域に近い大女になって行ったのだ。
サンドラは13、4歳の思春期に入った頃から、『カサ・デ・バンブー』への足が遠のいて行った。ある年にはイビサにさえ来なかった。毎年のように、ドイツの学校、イギリスの学校に送られ、半年、1年と外国で過ごすようになったのだ。小鳥が巣立つように独立して行ったのだろう。
それと時期を同じくして、私もマドリッドに出向いた時、アントンとジョランダに電話する回数も減り、会うこともなくなった。幼女、少女のサンドラが私たち、アントン、ジョランダと私の関係の要になっていたと今になって気付くのだった。
サンドラは大学を出た後、父親、アントン譲りの語学を生かし石油化学の会社に入ったと人づてに聞いた。女忍者にはならなかった。
-…つづく
第67回:マジョルカの歌姫“マリア・デル・マル・ボネット”
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