第11回:酒場サルーンと女性たち その11
■エッタ・プレイス その1
西部開拓時代にはたくさんの女傑が登場する。ライフルの名手のアニー・オークレー、カラミティー・ジェーン、カトル・ケイトなど、名を残し、書かれ、映画になっている。
エッタ・プレイス(Etta Place)は、西部史に名前が現れた期間がえらく短いが、それだけに私のような西部マニアに強烈な印象を残した。
言ってしまえば、ブッチ・キャサディと連れ立ってアルゼンチンに向かう前にサンダンス・キッズと一緒にニューヨークの写真館で撮った一枚の写真がすべてで、ほかは皆そこから生まれた幻想、妄想と言い切っても良いくらいだ。彼女の沈んだ美しさが伝説を呼んだのだろう。

ニューヨーク、ディ・ヤング写真館で撮られた写真
二人ともまるで舞踏会、公式の儀式にでも行くような出で立ちで、
とてもこれからアルゼンチンの辺境で開拓生活を送るようには見えない
エッタは丸顔で目鼻立ちがすっきりとした美形の典型だ。そして、彼女の眼差し、控えめながら知的な意志を秘めている目が、この写真を見る者に強烈な印象を残した。この写真のおかげというか、こんな澄んだ目をした女性が娼婦であるわけがないと措定、止揚され、エッタ娼婦説を打ち消しているほどだ。
西部で売春婦の生活を続けていたなら、消耗が激しく、あれ程清楚なイメージ、汚れのない目を保つことなどできないと言うのだ。真面目な西部史家ラリー・ポンターですら、エッタの出生、生涯は、西部史上最も興味をそそられるが、解明できていない問題だとしている。
この生まれも経歴も死んだ場所もはっきりしないエッタの生涯を突き止めたならば、西部アウトロー史上でノーベル賞ものの発見になるだろう。
といった現状で、知れている事実にリサーチャーや好き者アマチュアの西部史家の文献をないマゼにして、エッタ・プレイスの生涯を語ってみようと思うのだ。
生まれたのは1878年、プラス・マイナス4~5年というところだろう。どこで生まれたかは、漠然と東部だろうと推定されている。というのは、エッタの発音に東部の訛りがあったからだ。しかし、あの時代、西部を流れ歩いていた一攫千金タイプの人間の半数は東部人だったから、出身はどちらでと訊かれ、東ですと答えたようなものだ。
1900年の国勢調査に、テキサスはサンアントニオのコンチョー通り212番地に、エセル・ビショップ(Ethel Bishop)なる若い女性が登記されている。生まれはウェスト・ヴァージニア州で、1876年生まれ、国勢調査の時点で23歳だった。
エセルは教師だった。当時、辺境の小中学校教師は圧倒的に女の仕事であり、かつ音楽の素養が求められた。讃美歌、国歌、民謡などを備え付きのオルガンでどうにか弾けるのが、伴奏する程度にしろ、大切な条件だった。
彼女の住まいが有名なファニー・ポーターの娼館のすぐ近くで、国勢調査の時、エセルは失業中だったから、ファニー・ポーターの店でアルバイト?をしていても不思議ではない。そこでワイルドバンチの面々と遭遇し、サンダンス・キッズの恋人になったと推論され、エセル=エッタ説が生まれた。
エッタに痛く同情的なリサーチャーは、何としてもエッタ=売春婦説を受け入れず、ちょっとしたサルーン、娼館に必ず置いてあったピアノを弾いていただけではなかったか、誰彼なく客を取るような行為はしていなかったと弁護している。
ピアノ弾きは時給、日給で、もちろん娼婦業に比べ収入は微々たるものだったにしろ、そんな職業があることはあった。これはもちろん証明不可能な、エッタ・プレイス聖処女の信仰が生んだ憶測だろう。こうなってくると事実はどうでも良くなり、幻想を楽しむなら、それでいいのではないかというフィクションの世界だ。
戦後、それに輪をかけるように、ジョージ・ロイ・ヒルの映画、『明日に向かって撃て!』(邦題;原題:Butch Cassidy and the Sundance Kid)では、エッタ役を小学校の先生にし、しかも演じたのがチャーミングで魅力たっぷりのキャサリン・ロスだった。この名作では、エッタが娼婦上がりなんてことは全く匂わせず、清楚で垢抜けした魅力のみを前面に押し出していた。
だが、どう考えても、定住しないアウトロー、この場合はサンダンス・キッズと一人の女性が知り合い、親しくなるのはサルーンか娼婦の館でしかないように思える。いずれにせよ、二人の出会いがどこであったか分からない。
ユタのウネメッカ銀行強盗で懐が潤っていたサンダンスは、テキサスでエッタと合流し、ニューオーリンズに抜けた。だからそれ以前に、アルゼンチン行きを話し合い、合意していたのだろう。ニューオーリンズで新年を迎え、それからニューヨークに向かった。ニューヨーク到着は1901年2月1日で、そこでセントルイスからのブッチと落ち合っている。この足取りは、克明にピンカートン探偵社の記録に残っている。
そして、有名な写真が撮られることになるのだが、ディ・ヤング写真館に向かう前に二人はティファニー宝飾店でエッタの胸を飾っている懐中時計を150ドルで購入している。ブッチ、サンダンスとエッタの三人組は、ありきたりの観光に時間を潰していたようだ。もちろん、ホテルには偽名で投宿している。職業はワイオミングの肉牛業者としている。
エッタとサンダンスは1901年の2月20日に、ニューヨークからブエノス・アイレスに向けてヘルミニア号で旅立っている。しかし、乗船名簿にブッチの名はない。
余程、サンダンスの病状、慢性の喉と鼻の炎症、それに加えて銃弾を受けた傷が病み、耐えきれなくなったのだろう、アルゼンチンに1年ほどいただけで、診療のためアメリカにエッタと二人で舞い戻っているのだ。それが1902年の3月のことだ。
その間、ブッチは一人でアルゼンチン政府が無償で与えた放牧地、チリ国境に近いチョリラで、着々と牧場経営の基盤を築いていたようだ。これはブッチが詳細な手紙をエルジー・レイの母親に送った手紙も残っているので、状況は掴めている。エルジー・レイは服役中だった。
ブッチは二人のガウチョ(牧童)を使っており、仕事に必要なスペイン語会話はできたようだが、孤独を訴えている。当然、サンダンスとエッタとも手紙のやりとりをしていたことだろう。だが、そんな手紙は残っていない。
第12回:酒場サルーンと女性たち その12 ■エッタ・プレイス その2
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