穏やかな海を眺めてのんびりしようとして、私は思い直した。ロープウェイに未練を残して佇むよりも、気を取り直して先を急ぐべきだ。当初は17時32分のバスに乗り、宇和島を18時57分に出る電車で松山に向かう予定だった。これだと、宇和島から列車に乗る頃は日没を過ぎてしまう。しかし、予定を変更して1時間早いバスに乗り、1時間早い列車に乗れば、夕暮れの瀬戸内海を眺められるかもしれない。
御荘からのバスは空いていた。私は最前部左側の席に座った。海側だし、バスの前面窓は大きいから、電車の先頭よりも景色がいい。しかし海側だと喜んだのも束の間で、御荘を過ぎると海が遠ざかった。四国は鉄道も道路も海岸に執着しないらしい。生活の場も内陸中心な気がする。ここは台風の通り道だし、海岸は険しい。川の恵みに恵まれるなら、人々は自然に内陸に落ち着くことになる。
宿毛街道で宇和島へ。
バスは国道56号線、通称"宿毛街道"を走っている。しばらく走っていると、後ろの席に座っていた初老の大男がやってきて、運転席の真後ろに座った。白装束。ひと目で四国八十八ヵ所参りだとわかる。地図を開き、冊子を取り出して、なにやら調べ物をしている。次の寺の最寄りの停留所を探しているようだ。解らないところがあったら運転手に訊ねるつもりなのだろう。平日の昼間に男ひとりで巡礼とは、どんな事情があるのだろう。
そもそも、四国八十八ヵ所参りとはなんなのだろうか。
信仰心のない私でも四国八十八ヵ所参りくらいは知っている。むしろ四国という言葉で連想する言葉の筆頭が八十八ヵ所参りといってもいい。旅立つ前に四国へ行くと言えばお遍路かと聞かれるし、四国の人々に旅をしていると言えばお遍路かと言われる。テレビで四国を紹介すれば必ずお遍路さんが登場するし、時代劇を見れば悲劇の主人公がお遍路に旅立っていく。ではお遍路とは供養なのかと思うけれど、そうでもなく、今では旅の目的のひとつとして広く知られている。
四国八十八ヵ所参りは、弘法大師に縁のる寺社を巡る旅である。すべて巡り終わると結願成就。これはけちがんじょうじゅと読む。そのあとで、和歌山県の高野山に行き、弘法大師様を詣でる。これで満願成就である。先ほどは男ひとりで、書いたけれど、四国八十八ヵ所参りは"同行二人"といって、常に弘法大師様と共に旅をしているとされている。だから弘法大師様を高野山へお送りしないと終わらない。
宿毛から宇和島を結ぶバスは、四国八十八ヵ所参りをする人にはなじみ深い路線のはずだ。宿毛から御荘に向かうバスにもお遍路さんがいた。三九番の延光寺が宿毛にあり、四十番札所の平城山観自在寺が御荘にある。四一番の龍光寺は宇和島の先だ。国越えの道中だから各寺の距離が長く、よほどの決意がない限りバスに乗ると思われる。
穏やかな海沿いを走る。
四国八十八ヵ所参りは、多くの日本人にとって富士登山と同じくらい大きなイベントのひとつかもしれない。日本人なら一度は富士山頂に立ってみたい、一度は四国四国八十八ヵ所を巡りたい。旅の動機としては解りやすい。その反面、日本人なら一度はすべての鉄道に乗り通したいという旅は理解されにくい。いや、趣味だから理解されなくていいことではある。
マイカーで巡る人を軽く見るつもりはないけれど、徒歩や公共交通機関を利用するお遍路さんには、切実に願をかけたいという、なにか壮絶な理由があるに違いない。私はふと、宮島の厳島神社を思い出した。観光客たちがそろそろと進んでいく廊下。そこから奥の神殿が見えた。長い髪の女性と、両親と思われる両隣の男女。あの家族は何を祈ったのだろうか。
科学が何もかも解決し、コンピュータが天気を正確に予測してくれる世の中で、それでも人は祈りをやめない。祈ること、思うこと。それは、機械には肩代わりできない、人間の最後の領域だといえる。祈る人を美しいと思う理由は、人間にしかできないことをしているから、かもしれない。
この大男も、なにか理由があって四国八十八ヵ所を巡っているのだろう。旅の理由を知りたいけれど、きっと行きずりの旅人に話す理由ではないだろうから訊けない。そのかわりに失礼な予想をしてみる。悪しき稼業から足を洗ったか、意図せぬ事故で誰かを死なせてしまったか、リストラした社員一家の心中を知って悔やんでいる会社社長か……。
ちらちら見ている私に気付かず、大男は冊子をめくり、おもむろに携帯電話を取り出してボタンを押し始めた。今夜の宿を手配しているようだ。かなり乱暴な言葉遣いである。しかも、住所を聞くと運転手に話しかけ、どのバス停で降りたらいいかと話しかける。まだ心の洗濯は終わっていないようであった。
養殖筏がいくつも浮かんでいる。
運転手は親切だ。次に停まったら無線で調べましょう、と言っている。四国の人々は島ぐるみで、お遍路さんを迎えよう、という気概があるのかもしれない。ところがバスは停まるきっかけをつかめない。空いている道を、恒に一定の速度で走り続けている。信号もなければ停留所で降りる人もいない。なるほど、こんな交通事情なら鉄道はいらないな、と、鉄道ファンにあるまじき感想を持ってしまった。
国道56号は海沿いばかりを走るわけではなかった。しかし、海岸線を離れても、高いところを走るから海が見える。長いトンネルがあるから、たぶんこの道はバイパスの役目を持っているのだろう。
地図を見ると、国道56号線は旧道が迂回した柏崎を短縮し、由良岬から宇和島までの複雑奇怪な海岸線もバッサリと切って短絡している。半島の根本を最短で結ぶから、ちょっと走るとすぐ海が見える。
入り江には養殖筏がいくつも浮かんでいた。地図によれば、主に真珠、一部で鯛を育てているらしい。リアス式海岸を利用して明治40年から始まった養殖真珠は成功し、宇和島は全国有数の産地となった。愛媛に入って海と暮らす町が目立つような気がする。湾が大きいし、瀬戸内の静けさが人々を近づけたのかもしれない。
宇和島市街に入って道が混んできた。バスはスピードを落とし、とうとう渋滞の列に並んだ。運転手さんがやっと無線機を使い始め、大男を安心させていた。しかし私は気が気ではない。一時間早いバスに乗れたのだから、一時間早い列車に乗りたい。次の発車は18時06分。バスの到着予定時刻は17時47分。初めての土地だから、ここが駅に近いかどうかも解らない。ただバスに身を預けるしかない私である。
遅れても予定の列車には間に合うだろうから、むしろ食事ができていいかもしれないな、と悟ったとき、前方に駅ビルらしき建物が見えてきた。時刻は17時50分。私は大男よりも先に運賃を精算し、早足で改札口を目指した。特急『宇和海22号』の発車まで、あと16分である。
宇和島駅着。
-…つづく
第144回からの行程図
(GIFファイル)