宇和島駅前のバス停から早足で駅の窓口に向かい、特急宇和海22号の指定席券を入手した。自由席でも大丈夫だと思ったけれど、万が一の大混雑と言うこともある。グリーン車に乗りたいと思っても、この列車には連結されていない。バースディきっぷはグリーン車乗り放題という気前の良さだが、実はグリーン車そのものが少ない。本州に渡る列車には連結されているから、"よそ行き"という感覚なのだろう。
松山行きの特急宇和海22号は駅舎につながったホームに横たわっていた。4両編成のディーゼルカーで車体は銀色。清潔な印象もあるけれど、レストランの厨房みたいだというぶしつけな感想を持つ。もっとも、ステンレスボディの外観は最近の電車に共通で、これを厨房だと言ってしまったら、東京の電車はみなスプーンやフォークが走っているようなものだ。ようするに味気ないわけだが、こんな列車にも美しいと思える瞬間がある。それは夕暮れの赤みがかった陽が当たる時だ。いま、まさに南風22号は輝いている。この時間に乗れて良かった。ロープウェイに乗れなくて良かった。つまり負け惜しみである。
明るいうちに宇和島を出発。
18時06分。宇和海22号は静かに発車した。驚いた。本当に静かだ。ディーゼル特急だからガリガリという音を立てて走ると思っていたけれど、静かで加速もしっかりしている。国鉄時代の四国は電化を後回しにされてしまったというけれど、その恨みでディーゼルカーの開発に執念を燃やしたのかもしれない。高知から宿毛までの南風もそうだったな、と思い出す。さっきまでバスに揺られたから、静けさが引き立つのかもしれない。厨房みたいな銀色などと思って済まなかった。
車両基地を右に見て、列車は緩やかに左へ曲がる。次の北宇和島駅を過ぎると分岐点があって、右へ別れている線路がある。窪川方面に向かう予土線である。ロープウェイさえなければ、あの線路で宇和島に来たはずだが……と思うけれど、次に乗りに来る楽しみが残って良かったとも思う。バスから見た海岸の景色も悪くなかった。
宇和海22号は谷間を走っている。海のそばではないけれど、高台を走るときに少しだけ海が現れた。それ以外は谷間とトンネルである。小さなトンネルがいくつも続き、最後にドーンと長いトンネルを潜る。急に視界が開けたと思ったら盆地である。卯の町という駅に停まった。大きな町だ。地図を見ると、北の源流から流れてくるいくつかの川が合流し、宇和川という名前になる地域であった。この川の行く末がすごい。この辺りは海から5キロほどの距離なのに、川は東の内陸へと切り込むように降りていき、Uの字を描くように北へ向かい、なんと瀬戸内海へ注ぐのである。かくも四国は険しい山岳地帯である。
一瞬の絶景。
宇和海22号のスピードが上がった。なにをそんなに急ぐのか、と思うほどだが、特急だから速いのだ。山岳路線の予讃線は、この辺りだけが平地である。たぶん時速100キロ以上は出ているだろう。ここで時間を稼がなくてどうする、という走り方である。列車はスピードが上がるとガタガタと揺れて不快だが、南風22号の高速走行はスムーズで心地よい。これはJR四国が苦心して開発した振り子機構の効果だ。
ただの銀色の気動車、と思ってはいけない。外観に悪口を言ってしまったけれど、この車両は世界で初の振り子機構付きディーゼルカーだ。振り子機構とは列車がカーブを曲がるとき、車体を機械的に内側に傾けて、車体と乗客にかかる遠心力を低減させる仕組みである。例えるなら飛行機だ。飛行機は旋回するときに機体が傾いているため、重力を余計に感じるけれど横方向の感覚は変わらない。これと同じ効果を狙って、列車の傾きを制御しているのだ。
振り子機構は乗り心地をよくするだけではなく、車体の安定性が高まるため、カーブの通過速度も上げられる。この仕組みは山岳路線の電車特急において30年も前から採用されている。しかしディーゼルカーでは実現できないと思われていた。回転だけするモーターと、ピストン運動が絡むエンジンの仕組みの違いなのだろうか。難しいことは解らないけれど、無理と思われていた仕組みを諦めず、JR四国とJRの鉄道総研は技術力を結集し、なんとか工夫して作ってしまった。すばらしきニッポンの技術。難しい話だろうけれど、いい話である。
カーブで列車が内側に傾く。
JR四国の路線図は島をぐるっと回っていて、線路は海沿いばかりだと思っていた。その印象は土讃線で改められたわけだが、予讃線も例外ではなかった。四国は海の島ではなく山の島である。その証拠に夕陽が山の稜線に落ちて行くではないか。太陽が山の影をなぞり、光が見えそうで見えなくなる。まだ明るいけれど、景色が見える時間はもうすぐ終わってしまうようだ。もっと見たいのに。さっきから私は窓のほうばかり向いていて、そろそろ首が痛くなっている。
18時39分、八幡浜駅を発車した。たくさんのお客さんが乗ってきた。背広姿が目立つところを見ると、通勤で利用している人たちだろうか。適温だった車内の温度が高くなった。乗客が多くなったと見計らって車内検札が行われた。そして長いトンネルを通過する。夜昼トンネル、という面白い名前が付いている。夜昼峠を潜るから夜昼トンネルである。では夜昼とはどういう意味かと言えば、峠越えに夜と昼を費やすという説と、霧が寄り干る様子が見られるからという説があるらしい。地元の人の多くは後者を支持しているそうだ。夜明けと共に霧が引いていく景色は幻想的に違いない。私も後者を支持したい。
山に夕陽が落ちていく。
もう景色は見えない。私は痛くなった首をさすり、正面を向いた。目を窓に向けると自分の顔が見えて不愉快だ。駅に停まる。駅名標に伊予大洲と書いてある。ここから松山への線路はふたつのルートに別れる。予讃線は北に向かい海沿いを通る。しかしトンネル技術が発達すると、直線で山を貫くルートの内子線が造られた。特急列車はもちろん直線ルートである。暗いしトンネルだし、つまらない。次回の四国の旅で、昼間に改めて乗ることにしたい。
町の灯りが流れるようになって伊予市。幹線道路の光の列が長くなっている。宇和海22号は光に囲まれてラストスパートをかける。突然、大きな光に包まれる一画を通過して、それをきっかけに列車は速度を落とした。松山着19時25分。改札を出て駅を出る途中で光の正体がわかった。あの光は松山の坊ちゃんスタジアムであった。立て看板に四国リーグの対戦カードが告知されている。そういえば四国は地域独自の野球リーグを立ち上げていた。2004年創設。2005年公式戦開始。2006年4月の今日、今年2年目のリーグが始まったばかりであった。
松山に到着。
-…つづく
第144回からの行程図
(GIFファイル)