第40回:フアナ・ラ・ロカ ~イビサのキチガイ皇女
ラテン系の人々、特にスペイン人は物事を直接的に表現する。慇懃に持って回った言い方、呼び方をしないし、それを嫌う。チビはチビ、ハゲはハゲで、髪の毛が薄いなどとは言わない。それを各人の感覚的なことにまで広げ、自分の判断を断定的に表現する。美女、美男というのは多分にその人の好き嫌い、感覚に左右され、絶対的な基準などないはずなのだが、自信を持って、彼女はブスだ、彼はブ男だとやるし、それを自分にまで当てはめ、私はとても美人だと臆面もなく言う。それがちっとも嫌味でなく、自然なこと、髪の毛の色が黒いか、茶色か、金髪かという事実の一部であるかのように言うのだ。確かに、スペイン女性の70~80%は美人ではある…。
人間の肉体の外見を重んじる思想はギリシャ、ローマ時代の圧倒的肉体オンパレードの彫刻を持ち出すまでもなく、偉大な伝統だと思う。奇妙にねじれ、陰にこもった精神主義的な表現、ゲージュツは中世以降になってカソリシズムが重い石になるまで、なかったのではないか。元々ありもしない内面を石に堀り、絵画として描き出すことなど、眼中になかったと想像しても許されると思う。
外見を写実的に言うのは良いのだが、「あいつはロコ(ロカ)だ!」(男性loco, 女性loca;キチガイだ、狂っている)とやる。それが愛情を込めた表現の一つにもなっているから、一概に蔑称とは言えない。ラテン系の人には“狂”を容認する懐の深さがあり、“狂”を眺めて楽しむところがある。教条的、ありきたりの常識人を個性のない退屈な人間として軽蔑するのとは反対に、“ロコ”“ロカ”は褒め言葉的な印象さえ与える。そんな場合は特に“ブエナ・ロコ(ロカ:buena loco;loca)”良いキチガイと呼んだりする。
スペインの歴史に登場する、キチガイ皇女“フアナ・ラ・ロカ”(Juana la Loca)*1は特に有名だが、イビサにも狂女マリサ(Marisa la Loca)がいた。
マリサは相当な“狂女”で、いつも旧市街の市場やカジェ・マジョール、港を徘徊していた。今流に言えば、完全に狂ったホームレスだった。カトリシズムのなせるワザと言い切って良いと思うのだ、スペイン人は乞食や物乞いに小銭や食べ物を与えずに通り過ぎることができない。お腹を空かしている人を目の前にして、何も施さずに無視するのは余程の冷血漢だとみなされる。よって、物乞いをしている空腹を抱えた哀れな当人は、一様によく太っているのだ。
マリサも例外でなく、締りのない太り方をしていた。年齢を想像するのは難しいが、30歳前後ではなかったか、ボサボサで最後に洗ったのは何時のことか判明しようのない髪の毛、汚れ切ったタイツのような下、上はゆるいスウェットシャツを着ていた。

イビサ港近くの旧市街の通り
市場で店を開いている人たちは、マリサに店の前をうろつかれると迷惑なので、果物やチーズのカケラ、パンを与え、あっちへ行けと追いやるのだ。
マリサのホームグランドは、カジェ・マジョールの入り口にある“バール・マリアーノ”だった。その界隈にはドラッグの売人や、自称イビサ通でイビサのことなら何でも俺に任しておけ風の観光客から何がしかをせしめるのを信条にしている御仁がタムロしている。彼らがマリサにビール、コニャックを奢ってやるのだ。いくら狂っていても、食べ物、飲み物を施されるとその場所をシカと覚え、再三訪れるようになる。
マリサが酒の味を覚え、アル中になる前は、近くに来られると目まいするほど強烈な体臭を放ってはいるものの、独り言をブツクサ年中つぶやいているだけの無害な大人しい狂女だった。彼らが言う“ブエナ・ロカ”(良いキチガイ)だった。
体臭がスザマシイのは、スペイン人全般に言えることで、まだデオドラント(制汗剤)を脇の下に塗る習慣がなかった当時、夏の暑い盛り、マドリッドやバルセロナの地下鉄に足を踏み入れると、強烈な体臭で頭がクラクラしたほどだ。
“バール・マリアーノ”の客が、マリサに無責任にアルコールを与え出してから、彼女の体臭に酒臭さが混じり、“狂”の度合いが増して行ったと思う。旧市街で時々人だかりがしていると、その中心にマリサがいて、独演を披露しているのだった。
静かな独り言ではなく、大声で観衆に訴えるように、「私ほど美人で、頭の良い人はここにいないだろう」と叫び、周囲の酔客が、「オメーの言うとおりだ。スタイルも抜群だしな…」とチャチャを入れると、マリサは醜くたるんだ体でシナをつくるようにポーズを取り、踊り出すのだった。マリサから距離置いた取り巻き連中は、低級な大道芸人でも眺めるように円陣を作るのだった。

旧市街の市場(Mercado Biejo)は城壁入口近くにあった
私は朝、市場へ買出しに出かけた時、マリサの狂態を頻繁に目にした。そしてマリサの下っ腹が奇妙に膨らみ出したことに気が付いた。明らかに妊娠しているのだ。何ヶ月かは想像するしかないが、みるみる大きくなっていったから臨月が近いことが知れるのだ。
空色の制服に紺色の制帽を被った、痩せた貧相な市警がマリサをなだめるように、何事か耳元でささやき、マリサを小型のパトカーに乗せようとしたのを2、3度目撃した。その若いお巡りさんは、“イヤ~、参ったな~、一体どうすりゃいいんだ”というウンザリした態度がミエミエだった。
最後にマリサの狂態を見た時、マリサはその若いお巡りに、「あら、あんた美男子ね~、私をどこに連れて行こうというの? また私とイイコトしようというのかい?」と、若いお巡りに抱きつきホッペタにキスをしたのだ。こうなると、お巡りは完全な逃げ腰になってしまい、お手上げだった。
「でも、私はどこにも行かないからね~、アラ、ちょっとオシッコがしたくなったわ、どこか近くにトイレはないかしら、そんなもの必要ないワ…」と、その場で暗い色のタイツのような下穿きの内股がグッショリと濡れ出したのだ。気の弱いお巡りさん、マリサの肘を軽く掴み、
「マリサもう十分だ、下着を取り替え、風呂に入ろう…」と、優しく諭しただけなのだが、マリサは旧市街全体に響き渡るほどの悲鳴を上げたのだ。
「ワタシャ、どこにも行かない! 助けてくれ~」と、火が点いたように喚いたのだ。
取り巻き連中も、「そうだ、そうだ、マリサを放っておいてやれ!」と、マリサに加勢した。
好奇心が強く、何でも見たがる私にしては珍しいことだが、胸に重い石を載せられたような気分で、その修羅場を最後まで観ずに立ち去った。
その後、マリサは旧市街から消えた。数ヵ月後、冬のシーズンオフにマーティンがやっている“バール・タベルナ”でマリサのことが話題になった。マリサはカトリックの尼さんがやっている精神病院に収容され、玉のような赤ちゃんを産んだ…と知った。
その後、マリサも赤ん坊もどうなったかは誰も知らない。
*1:Juana la Loca;フアナ・ラ・ロカ=「狂女フアナ」
-…つづく
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