第18回:サンドクリーク後 その1
騎兵隊の側の損失はハッキリしていて、死者19人、負傷者70人だ。死者の大半は同士討ち、または強姦の順番を争ってのことだったというのが定説になっている。
騎兵隊の負傷者が70名と意外に多いのは、攻撃を仕掛けた時点ですでに泥酔し、でき上がっていた騎兵隊員が大半で、満足に馬に跨っていられず落馬したからだとされている。
シヴィングトンはもっと早くに軍に戦闘停止、引き上げの指令を下すべきだったと、このサンドクリーク大量殺戮に、点数の甘い歴史家でさえ述べている。しかしながら、血に狂った酔っ払い集団はシヴィングトンの命令など聞く耳を持たなかったのかもしれない。元々シヴィングトンの指揮する第三義勇騎兵隊は、訓練も命令系統も行き届いていない、ならず者集団だったが…。
第三義勇騎兵隊がサンドクリークの部落を焼き払い、掃討し終わったのは午後の2時頃だった。馬を休ませ、兵隊に水、食料、酒を与え、その晩は布陣したままサンドクリークで過ごしている。
翌11月30日に、第三義勇騎兵隊は一路デンバーに向かった。途中の砦から、シヴィングトンは知事エヴァンスとロッキーマウンテン・ニューズの主幹ビル・バイヤーに電報を打ち、激戦の上、大勝利を飾ったと高らかに報告している。
敵愾心を持つ危険なインディアン500名に及ぶ戦士を全滅させた。相手のインディアンは900~1,000名の屈強なファイターで、その中に著名なブラック・ケトル、ホワイト・アンテロープ、リトル・ローブなどの酋長、加えてローマン・ノーズが率いるドッグソルジャーを壊滅したと報告したのだ。
正に自画自賛で、サンドクリークを西部の歴史に残る最大の勝利だとしたのだ。それがそのまま新聞に掲載され、白人たちは大勝利を信じた。
シヴィングトンと第三義勇騎兵隊はデンバーで、まるで大勝利を飾ったかのような凱旋パレードを行った。マスコミも勝利を囃し立てた。
シヴィングトンの軍の一方的な情報に基づく戦勝をマスコミが大々的に報道し、戦勝大パレードを笑うことはできない。日本でも第二次世界大戦中にそれこそ欺瞞の大本営発表をそのまま記事にし、書かれた連戦連勝を信じてチョウチン行列を行ってきたのだから…。
自己顕示欲の異常に強いシヴィングトンは、自分が率いる第三義勇騎兵隊の大勝利を信じていたのだろうか? ただ肥大化した情報だと知りながら軍上層部とマスコミに向けて保身のために流していたのだろうか? サンドクリークがドッグソルジャーの基地だと思い込んでいたのだろうか? デンバーでの和平交渉で和平派のブラック・ケトル率いるシャイアン族、ホワイト・アンテロープ率いるアラパホ族がライアン砦からサンドクリークに強制移動させられたことを知らなかったわけがない。それを知りながら、裏切りの奇襲攻撃を仕掛けたのだ。

ジョージ・ベントと最初の妻マグピー
1867年頃、結婚式の肖像画のためにポーズをとっている
軍の公式発表的な、シヴィングトンの電報に基づくチョウチン持ちの記事が載った同じ新聞の3ページ目に控えめな記事だが、サンドクリークから逃がれたジョン・スミス(彼は白人でトラッパーと呼ばれるワナ師で、ビーバーを罠で捕り、その毛皮を東部へ売っていた。同時に、インディアンから毛皮を買い付けたりしていた。シャイアン族と親しく、虐殺のあった時に部落にいた)と、ウイリアム・ベントとシャイアン族の間にできたハーフの娘、ジュリアと結婚したエド・グエリー(トレーディング・ポストというインディアンや罠師が持ち込む毛皮を生活物資と交換する交易所を営んでいた。サンドクリークの虐殺に居合わせた)、この二人の証言を載せている。
彼らは部落に総計で500人、そのうち大半が女、子供、老人で、成人のほとんどは女性だったと語り、サンドクリークは戦闘ではなく、一方的な殺戮行為だったと言明している。
その時、サンドクリークの部落にいた白人は、このジョン・スミスと彼の息子、それにもう一人、どうして部落内にいたのか不明だが、最下級の兵士(Private Solder)、デヴィッド・ラウダーバック(David Louderback)、それに“クラーク”とだけしか知られていない御者がいたことが知られている。エド・グエリーはシャイアン語が達者で、シャイアン族の中で暮らすことが多かった。
盛大なパレードは、12月12日、デンバーの目抜き通りで行われた。これこそ、当時、西部で行われた最も派手派手しいギンギラの戦勝パレードだった。第三義勇騎兵隊員はすでにでき上がっていた上、飲み放題の大歓迎で迎えられ、町の娼婦たちも無料サービスにこれ勤めたとある。デンバー市民も狂喜したのだった。
-…つづく
第19回:サイラス大尉 その1
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