福島交通飯坂線は地元の人々から「飯坂電車」や「いいでん」と呼ばれているそうだ。1924(大正13)年に福島から飯坂まで開業し、1927(昭和2)年に飯坂温泉まで全通した。このときに飯坂駅を花水坂駅に改称している。全通から81年、大都市福島と保養地飯坂温泉を結ぶ観光路線として、地元の足として活躍する。
飯坂電車は普通鉄道ではなく軌道として認可を受けたらしい。その名残と言うべきか、路線のほとんどが県道とぴったり並ぶ。やはり軌道だった名鉄美濃町線に通じる雰囲気だ。特に笹谷から先は道路と民家の間に線路が割り込んだようにも見える。家の門は線路に向いているし、それぞれの家の門から道路に出るには踏切が必要だ。だから飯坂線には小さな踏切がたくさんある。自分の家の踏切、つまりマイ踏切である。ガレージに出入りするクルマの用の踏切もある。丁寧なことに、それらの踏切のほとんどに警報機が付いていた。
線路は少し上り坂になった。電車は医王寺前を出ると右に逸れた。裏道を登ってまた道路に沿う。道路の勾配について行けなくなって、仕方なく迂回したように見える。しかしその間、右手の見晴らしがよくなった。リンゴ果樹園が広がり、空も見渡せる。遠くの空は青いが、手前の雲が灰色に近くなっていた。福島を出るときは晴れていたが、この辺りでは雪がちらついている。山の近くである。
小川を渡る。
駅の間隔が長くなったせいか、電車のスピードが上がった。道路と並ぶ鉄橋で川を渡った。橋桁に枕木とレールを載せただけの簡素な作りで、窓から川面を眺めるとちょっとしたスリルが楽しめる。この川の名を地図帳で探すと小川とあった。しかし、けっして小さい川ではない。遡ると山形県との県境、板谷峠付近に届く。下流は阿武隈川の支流の摺上川に繋がっている。摺上川の上流を辿ると飯坂温泉で、さらに上流へ向かうと茂庭っ湖という名のダムがある。そこにも数本の川が注いでいる。阿武隈川の水域の広さに驚くばかりである。
正面に飯坂の町が見えている。電車はその街路に入り、旧飯坂駅の花水坂に停まった。線路一本にホームがひとつの小さな駅だが、飯坂電車の開業から3年ほど終着駅を務めた駅である。ここから線路は県道から離れ、市街地の裏側の勾配を上ったところが終着駅の飯坂温泉だ。
線路1本の駅で、線路を挟むようにホームがある。降車用と乗車用に分けられているのだろう。しかし、今日は降車ホームを封鎖していた。凍結で危険なためと書いてある。なるほど、頬に当たる空気が冷たい。私が乗った電車は10人ほどしか降りなかったけれど、観光シーズンはホームを分けて乗客の整理をするほどの賑わいがあるらしい。
飯坂温泉駅に到着。
飯坂温泉駅はコンクリート建築の四角い駅だ。川沿いの崖っぷちに作られたせいか、ホームと事務室は1階にあり、2階が道路に面している。衆目を集める2階に切符売り場はなく、コンビニエンスストアが入っていた。「もしかしたらきっぷの売り上げを超えるほどの収入元かもしれない」と勘ぐりたくなるけれど、「まさかそれはないだろう」とも思う。温泉町のコンビニがそんなに儲かるなら、全国の温泉町には電車が走っているはず。鉄道経営はそんなに容易ではなかろう。福島交通は福島を中心とした広大なバス網を持つ大企業であり、そのスケールメリットが"飯坂電車"を支えている、と考える方が素直というものだ。
小さな駅前広場に松尾芭蕉の像が立っている。芭蕉は奥の細道の道中で飯坂を訪れている。温泉で旅の疲れを癒したが、宿が雨漏りする貧家の土間で、蚊と蚤に食われて耐えられず、明け方に逃げるように立ち去った。かなりひどい目にあったような書き方だが、これを「芭蕉は飯坂で冷遇された」と評す人もいるし、「厳しい統制下にあった当時の飯坂で、不審者同然の芭蕉はかくまってもらった」と分析する人もいるそうだ。
私にはどちらとも判然としないけれど、旅人の視点で考えれば、宿選びは良いことも悪いこともある。私たちが旅先で困惑するような体験を芭蕉も経験していたということだ。芭蕉は優れた俳人だが、旅慣れた人ではなかった。そう思えば芭蕉に親しみを感じる。
芭蕉の像に迎えられる。
芭蕉の隣の碑は十綱橋の由来を説明している。ここに架けられた最初の橋は藤づるで作られたつり橋だった。1189年に義経ら鎌倉勢の討伐に向かった大鳥城主佐藤元治はつり橋を断ち切って決戦に向かい、それ以来、この地は渡し舟で連絡したそうだ。明治になってようやく木製のアーチ橋が架かったが1年で倒壊。その翌年に鉄ワイヤーのつり橋が架けられた。これが初代の十綱橋だそうだ。現在の十綱橋は大正4年に作られた美しいアーチ橋で、飯坂温泉のシンボルになっている。摺上川によって分断された飯坂の町では、橋が人々の絆ともいえる。
その隣には赤い石のモニュメントがある。日本初のラジウム発見の地と書いてあった。キュリー夫妻が放射線物質のラジウムを発見して以降、日本では帝国大学医学部生の真鍋嘉一郎が飯坂温泉でラジウムを発見し学会で発表した。それが飯坂温泉は世界に名を知らしめた。真鍋はその後、放射線や温泉治療の第一人者となり、日本レントゲン学会の会長も務め、優秀な医師として大正天皇や夏目漱石の主治医を務めている。
真鍋は愛媛県の出身で、松山高校に講師として赴任した夏目漱石に学んだ。この時代の逸話が後の小説『坊ちゃん』になる。夏目漱石に学んだ真鍋が、後に夏目漱石の主治医となり、その最後を看取ったとは奇縁であり、良いエピソードだと思う。
飯坂温泉はもっとラジウム温泉や真鍋嘉一郎を喧伝してもよさそうだが、謙虚なことに名物はラジウム温泉玉子くらいである。なるほど、モニュメントの赤い石は玉子だった。
飯坂温泉の旅館群。
町のシンボルの十綱橋を渡る。橋の南側は摺上川が川幅を広げているが、北側はベネチアのごとく、細い川の両側に背の高い温泉旅館がひしめいている。建物の裏側を見ただけで、たしかに飯坂は東北一の温泉町だなと思う。十綱橋を渡った先は湯野町という。昔、川を挟んだこちら側にも鉄道があり、湯野町駅という駅もあった。福島交通の前身の信達軌道が建設した路線である。
信達軌道は福島駅を起点とし、東北本線と阿武隈川に挟まれた辺りに路線網を築いていた。その中に東北本線の伊達駅を経由して湯野町に至る路線があった。飯坂電車よりも先に開業したが、かなり迂回するルートだったため、あとから開業した飯坂電車に客を奪われた。そこで信達軌道あらため福島電鉄は飯坂電車を買収する。さらに周辺のバス事業を併合し、現在の福島交通の基盤を作り上げていくのである。
福島駅から飯坂温泉までのふたつの路線は、飯坂東線、飯坂西線と呼ばれた。しかし飯坂温泉の客足は西線、つまり飯坂電車のほうに利があった。そこで福島交通は旧信達軌道をバスに切り替え、飯坂電車を残した。廃止された湯野町駅の跡地はバスの転回所になっていて、飯坂温泉駅から歩いて数分のところにあるらしい。
温泉街を抜けると商店街になり、生活感のある街並みになる。その商店街の途中にあるT字路が湯野町駅の入り口だ。駅舎はすでに除かれており、広い未舗装の空き地に古いバスが一台停まっている。道端と同じバス停の看板があり、時刻表があった。伊達経由福島駅行きは1日3本しかなかった。
満足したので飯坂温泉駅に引き返す。湯野中央商店街のアーチをくぐりつつ、こんなふうに静かな町で、ひっそりと暮らすのも悪くないな、と思う。そういえば駅の事務所に運転士か車掌の求人の貼り紙があった。駅に戻って確かめると、残念ながら私は年齢制限に引っかかる。悔しいが今日は帰ることにしよう。
湯野町駅の跡地。
-…つづく
第235回以降の行程図
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