珠洲で京都氏が降りた。彼はここで宿を予約している。明日はじっくり能登半島を巡るそうだ。これから終点の蛸島へ行っても引き返すだけだし、蛸島駅周辺には旅人を迎え入れる施設がないらしい。それに比べると珠洲は町の中心だ。奥能登へのバスも出ている。私はこれから蛸島駅ー足を伸ばすけれど、駅前を眺めて引き返すつもりである。チョモランマ登山隊が最終キャンプに滞在し、少人数で頂上を目ざして引き返すような……と例えたいが、それは登山家に失礼だ。列車で往復するだけの旅なんて、冒険とは言えない。
ひとり旅になり、ディーゼルカーに6分間揺られて蛸島駅に着いた。線路1本、ホーム1本。線路の先には小さな車止めがあるだけ。終着駅の名にふさわしく、寂しい最果ての駅だった。やっとついたな。何もないね。そんなグループ客の声が聞こえる。彼らはどこへ行くのだろう。ぼんやりと彼らに続いて歩くと、待合い小屋の側に雪だるまが作られていた。廃止される鉄道に対して思いが込められているのか、ただの遊び心なのか。雪だるまは、ひょうきんな顔のままホームに取り残された。
蛸島駅に到着。
出迎えの雪だるま…。
ディーゼルカーは蛸島に10分間滞在して折り返す。それが私にとって終着駅の見物時間である。乗り遅れると次の列車は1時間後だ。ここで静かに時を過ごすのも悪くない。しかし今日は寒すぎる。駅前を眺め、駅舎内のボランティア風の土産物屋を冷やかして、数分後には列車に戻って発車を待った。土産物屋に沿線案内のチラシがあり、読んでいたらトンネルクイズの答があった。"ん"の次のトンネルの名は"すず"。所在地の珠洲市にちなんでいた。
珠洲に戻ると、そこにはまだ京都氏がいた。旅館の迎えのバスを待っているそうだ。私はここから路線バスに乗り換えて能登半島の端を見物するつもりだ。私のバスの方が先に来て、これで本当にお別れになった。また日本のどこかで会おう、と言った。冗談ではないかもしれない。お互いに似たような旅をしていれば、どこかで会う可能性もゼロではない。いまこの瞬間にも、どこかで鉄道好きが車窓を眺めている。お互いが会話することは滅多にないけれど。
能登半島の先端を周遊するバスは"奥能登観光開発"という会社が運行している。時刻表の奥の方に小さく掲載されているだけのバス会社で、観光の文字が入っているのにWebサイトすら持っていない。インターネットを検索すると奥能登観光開発は北陸鉄道の関連会社だった。奥能登は禄剛崎やランプの宿などで人気のある観光地で、もっと情報の露出が多くてもいいと思う。しかし集客活動には消極的だ。もっとも静かなままであろうとする土地に、静かに過ごしたい人々が訪れる、そんな雰囲気が良いのかもしれない。
バスで奥能登へ。
バスは、半島を横断するルートで日本海側の木の浦に向かっている。木の浦行きのバスは、山道を短絡するルートと海岸線を迂回するルートがある。どちらも1日に3往復しかなく、時刻表を見ただけでも秘境だと思わせる。乗客は私の他に数名。市街地で老婆がひとり乗って、すぐに病院の側のバス停でほとんどの客が降りた。その後、バスは黙々と山道を走り続ける。薄い雪をまとった山肌。荒涼とした寂しい風景が続く。海が恋しくなってくる。
30分ほどで日本海に出て、しばらく走って木の浦についた。意外と短い時間で半島を横断したことになる。木の浦は奥能登のバスの中継地点であるけれど、開放型の待合室がひとつあるだけの空き地のような場所だった。他に建物は何もない。
木の浦バス停からの眺め……。
「おにいさん、どこに行くの」と運転手が話しかけてくれる。景色を眺めに来ただけで、海岸回りのバスで珠洲に戻るというと、
「じゃあそのまま乗ってなさいよ。このバスが海岸回りだから」
という。しかし、少しは歩いてみたい。外で発車まで待つと言い、扉を開けてもらった。待合室に行ってみると、そこは崖の上だ。灰色がかった青い海が見える。これが冬の日本海か、と思う。黒い岩に波がぶつかり、泡立っている。それを見ただけで満足した。
いや、無理矢理納得した、と言っていい。なにしろ寒くて5分も持たない。笑いながらバスの扉を叩き、「私が間違ってました、入れてください」というと、運転士さんも笑ってドアを操作した。きっと私のような旅人が何人も訪れて、同じやりとりを繰り返したに違いない。暖房で身体が温まった頃、バスが走り出した。帰りは海沿いのルートになる。禄剛崎、狼煙、約一時間の海岸の旅。海は静かに打ち寄せていた。夏は海水浴や観光で賑わうところなのだろう。しかしいまは人影が見えない。奥能登は冬眠中だった。
最果ての海岸線。
17時44分。定刻通り珠洲駅に到着。帰りの列車は40分後である。駅前に喫茶店を見つけた。窓際の席で暖かいコーヒーを飲みながら、しばらく何も考えずに過ごす。そして少しずつ今日の行程を振り返る。満員の上越新幹線から、荒涼としたバスの車窓まで。長い一日だった。しかもまだ終わっていない。そういえば、私は久しぶりに揺れない椅子に座っていた。暖かさが私を眠りに誘う。しばらくすると、コーヒーよりも、氷水が美味いと感じるようになった。
私は眠気を振り払って外に出た。たちまち冷気に包まれる。しかしそれが心地よい。シャーベット状の雪を慎重に踏んで駅に向かった。今日はこれから4時間かけて金沢に戻り、富山で朝を待つ予定だ。富山到着は23時28分。それまでの5時間の車中は景色が見えない。その時間を過ごすため、私はハードカバーの本を持ってきた。読まずに眠ってしまうかもしれないが、それでもいいのだ。今日の旅は終わっている。あとは5時間の退屈をどう過ごすか、である。
第95回以降の行程図
(GIFファイル)
-…つづく