■くらり、スペイン~移住を選んだ12人のアミーガたち、の巻

湯川カナ
(ゆかわ・かな)


1973年、長崎生まれ。受験戦争→学生起業→Yahoo! JAPAN第一号サーファーと、お調子者系ベビーブーマー人生まっしぐら。のはずが、ITバブル長者のチャンスもフイにして、「太陽が呼んでいた」とウソぶきながらスペインへ移住。昼からワイン飲んでシエスタする、スロウな生活実践中。ほぼ日刊イトイ新聞の連載もよろしく!
著書『カナ式ラテン生活』。


第1回: はじめまして。
第2回: 愛の人。(前編)
第3回: 愛の人。(後編)
第4回:自らを助くるもの(前編)
第5回:自らを助くるもの(後編)
第6回:ヒマワリの姉御(前編)
第7回:ヒマワリの姉御(後編)
第8回:素晴らしき哉、芳醇な日々(前編)
第9回:素晴らしき哉、芳醇な日々(後編)
第10回:半分のオレンジ(前編)
第11回:半分のオレンジ(後編)
第12回:20歳。(前編)
第13回:20歳。(後編)
第14回:別嬪さんのフラメンコ人生(前編)
第15回:別嬪さんのフラメンコ人生(後編)
第16回:私はインターナショナル。(前編)
第17回:私はインターナショナル。(後編)
第18回:ナニワのカァチャンの幸せ探し(前編)

■更新予定日:毎週木曜日




第19回: ナニワのカァチャンの幸せ探し(後編)

更新日2002/08/29 

アミーガ・データ
HN:Haruko
恋しい日本のもの: 『時間制限のない立ち読み』『母との心斎橋デート』

自分に自信がない、そう、気がついた。子どもができないと言われた体のこともある。でもそれよりも、流されるまま好きでもない大学や会社に入ってきたこと、人生の選択を自分でしていなかったことが、原因のような気がした。与えられた場所では楽しく頑張ってきたつもりだったけれど、気づくと円形脱毛症や吐血など身体が悲鳴を上げていた。

でも、流される中でつかんだもので、手放さなかったものがふたつだけある。スペインと、食への興味だ。

スペイン語は、就職した後もなんとなく学び続けていた。食については、大学時代にたまたま始めたバイトが縁となった。某レストランビルの、製菓・製パン部門の厨房。コックコートを着てパンを作っているうちに、食べ物を作る楽しさに目覚めた。あまりに楽しそうにパンを作るHarukoの姿に、主任が製菓部門の仕事もまわしてくれるようになったという。結局、短大に通う2年間のほとんどの期間、彼女はこのバイトを続けた。

「このままダラダラ人生続けてたら、あかん」 24歳、入社3年目に会社を辞めることを決意したとき、心の中に残っていたのはこのふたつだった。必要な資金を貯めると、Harukoは1年間のスペイン留学に旅立った。


1992年1月、到着したバルセロナを経て、世界中から留学生が集まる大学都市サラマンカへ。スペイン中央部の北にあるこの町は、冬が厳しく気温は氷点下となる。だがHarukoは、寒さが大の苦手。それに、文法や読解はできるのに会話力がないという現実も辛かった。また、留学生の中で、スペインで生活する実感に乏しかったのも不満だった。結局3ヶ月ねばった後に、彼女は食いしん坊の友人と「スペイン各地の名物料理食べ歩き」の旅に出た。

1年間の滞在中、Harukoは4回に分けてスペインのほぼ全土をまわっている。最初はマドリードから北東のアラゴンへ、そこから時計と逆周りにナバーラ、バスク、カンタブリア、ガリシアまで行ってサラマンカという「スペイン北部コース」。南のアンダルシアも、別の機会にじっくりまわった。地中海に浮かぶマジョルカ島にも渡った。そして、「なんとなく南の太陽の匂いが嗅ぎたくなって」、フラリとバレンシアへ。

ここが気に入り、滞在の残りの半年をバレンシアで過ごすことになる。たまたま語学学校の先生がレストラン経営の経験もあったので、交渉して語学ではなく料理を教わるクラスをはじめた。このときのレシピは、いまでも大活躍している。Harukoの料理上手は、彼女を知るひとなら誰もが認めるところだ。

バレンシアでは、友人とアパートをシェアしていたミゲルとも知り合った。その友人が「彼、あなたのことが好きみたいよ」とお膳立てしてくれたのだが、Harukoには付き合うつもりはなかった。お世辞の上手なスペイン人の言うことだし、それに日本に帰る時が近づいていた。私が日本に帰れば、きっとこのひと、私のことなんて忘れてしまうやろう。


1993年、日本へ帰国。まずは以前バイトしていた知人の誘いでホテルの厨房で、次にスペイン料理店で働く。スペイン料理教室も開催してみた。やがて派遣で食品会社で仕事をしながら、フードコーディネーターの勉強にも取り組んだ。そんな時、文通を続けていたミゲルが日本にやってきた。友人として、彼女の両親にも会った。彼は、Harukoにこう告げた。「結婚しよう。来年迎えに来るから」

ふたりでレストランに行ったときのことを、今でも思い出す。運ばれてきた料理が、冷めていた。こういうとき、どうするか。怒鳴り散らすひともいれば、我慢してそのまま食べるひともいるだろう。表立って文句は言えなくて愚痴り続けるひともいるかもしれない。でもミゲルは、ごく穏やかに、ウェイターに対して「悪いけど、温めなおしてもらえますか?」と頼んだ。悪いことは悪いとちゃんと相手に伝えながら、周囲を不快な思いにさせない。「あ、なかなかヤルやん……」 このひと良いな、そう思った瞬間だった。

結婚、ついにこの2文字が彼女の胸にともった。そして、もうひとつ。この滞在中に、Harukoが妊娠したことがわかったのだ。

忘れもしないあの日、これまで心細い気持ちで通い続けた産婦人科の門をくぐった。隣の妊婦にも聞こえるかと思うほど、心臓が鳴った。エコー検診を受け、画面に胎児の姿が現れたとき……、涙がこぼれた。涙は、家まで自転車をこぐ間も溢れつづけた。

妊娠、結婚、スペインへの移住。Harukoの報告をまとめて受けた両親は、娘の妊娠を心から喜んだ。一方で、海外へ行くことへの複雑な心境もあったのだろう。父は、黙って煙草に火をつけたという。

こうして、安定期に入った12月になって、Harukoはお腹の中の息子とふたり、スペインはバレンシアへと越してきた。


バレンシアでは、都心を少し離れるとバレンシアーノという方言が用いられている。会話は当然、道路標識などに表示されるのもこの言語。もちろんスペイン語に似てはいるのだが、慣れるまではなかなかたいへんだ。それに、田舎町では東洋人は珍しい存在。最初はなかなか打ち解けてもらえなかったが、義母が身体を張って守ってくれたこともあって、いまでは彼女がいちばん落ちつける町となった。

自宅の隣には、広々としたキャロブ(マメ科イナゴマメ属の木)の畑が広がる。休みの日には庭に置いたコンロでミゲル自慢のパエージャを作って、大きな鍋からみんなで食べる。夏はその隣に組み立てた特大のビニールプールで、子どもたちが歓声を上げる。冬はペチカあらためエアコンで暖められた部屋に集まって、テレビを見たりしゃべったり怒ったり泣いたり、笑ったり。なによりも、子どもたちがテーブルを囲んで賑やかに食事している光景を見るのが、Harukoにはいちばん楽しい瞬間だ。

ミゲルに彼女のどこが好きかと訊ねると「全部」という答えが返ってくる。なんど訊いても、答えは同じ。そして子どもたちも、料理上手であたたかいママのことが大好き。誰もが、Harukoのことを絶対的に愛している。もちろん、彼らもまたHarukoにとって、かけがえのない宝物である。


流されてきた、そう思っていた。「ツブシのきく人生ではなくて、潰されへん人生を手に入れたい」と、ずっと願っていた。そして気がついたら、目の前には家族がいた。

やっと、人生に柱ができたような気がする。家族こそが、現在のHarukoのなによりの支え。頼りがいのある大きな柱1本と、やんちゃで可愛い小さな柱3本。その小さな柱たちもいつか大きくなって、みんなでもっともっと、ナニワのカアチャンを力強く支えてくれることだろう。


威勢の良い関西弁と、楽しそうなバレンシアーノとが飛び交う彼女の家は、いつもあたたかくて賑やかで……。間違いなく、幸せのかたち、をしている。

 

※食いしん坊CHATAおばさんがスペインの郷土料理や食材を紹介するスペインつまみ食いも、よろしく!

 

 

第20回:泣笑的駱駝(前編)