第23回:人間としてのバッハという男 その1
歴史家、バッハ学者たちが調べ上げ、書いたバッハのライプツィヒ就職のいきさつは膨大な量になる。ここに書いたのはほんの超ダイジェスト版だ。私などが感心するのは、入れ替わり立ち代り応募者が自作のカンタータ、ミサ曲の楽譜を持ってきて、それを至極限られた時間の練習で演奏できた聖トーマス教会の管弦楽団、合唱団、ソリストの能力の高さだ。
オルガンだけなら、多少鍵盤のタッチの違い、重さ軽さ、スライダー(ストップ)の位置、鍵盤を押してから、パイプに風が送り込まれ実際の音になって教会内に響き渡るまでの何分の1秒かの差などあるにしろ、優れたオルガン奏者ならすぐにそのオルガンの特徴を掴まえることは可能だと思う。が、カンタータ、ミサ曲など、ソリスト、合唱、オーケストラが複雑に絡み合った曲を、しかも馴染みのない作曲家の作品を一体どのようにどれくらい練習し、演奏したのだろうか。
聖トーマス教会少年合唱団(通称=トマナコアー)
このメンバーになるだけでも大変なことらしい。ここから育って
大音楽家になった者も多い。前の聖トーマス教会カントルンの
クリトファー・ビラーさんもこの聖歌隊上がりだったと思う。
バッハもこんな聖歌隊で歌っていた。
バッハ・フェスティバルの室内オーケストラ
多くのメンバーは地元ゲヴァントハウス・オーケストラ団員でもある。
ともかく、バッハは聖トーマス教会のカントルンの職に就いたのだった。ライプツィヒ市としては皆に断られた末、少なくみる人で5番目、多く見る分では7人目の候補で、止むを得なく雇ったのがバッハだった。
ここで、一体、バッハとはどんな男だったのだろうか? 人間として、テューリンゲンの田舎町に生まれザクセンの商業都市で18世紀前半を生きた男としてのバッハを捉えてみようと思う。
バッハが偉大な作曲家であったことは私などがくどくど述べることではないし、そんな資格もない。が、人間としてのバッハのイメージを捉えてみたいと思う。膨大な量の作品を次から次へと作り、毎週三つの教会で演奏し、そのためのトレーニングを聖歌隊、オーケストラに授け、同時進行の型で20人もの子供を二人の妻に産ませ、その間、大量の手紙というのか、些事にわたる待遇改善の愚痴とも要求ともつかない上申書を書きまくり、また作詞までこなしている男なのだ。恒常でない精力、集中力の持ち主であったことは間違いないと言い切ってよいだろう。
以前、このノラリのコラムにイビサ島での生活を書いた。私が住んでいた地区のロスモリーノスはドイツ人が多く、ある者は避暑の別荘を持ち、他は賃借のアパート、コテージを通年借り、住んでいた。営んでいたカフェテリア『カサ・デ・バンブー』(竹の家)の客も70%くらいはドイツ人だったと思う。スペイン領のイビサのドイツ人コロニーの中でショウバイし、彼らと鼻突き合わせて十余年暮らしていたことになる。
とは言っても、私はドイツで暮らしたことはないし、イビサ島に来るドイツ人、しかも彼らが仕事から解放され、バカンスを過ごす時だけの付き合いしかない。言ってみれば、小さな窓から覗き見たドイツ人論だ。翻って、長年住んだスペイン、スコットランド、プエルトリコ、そして今住んでいるアメリカに対しては、それなりの感慨を持ってはいるのだが、具体的に書くことができないでいる自分に驚く。一局面を思い浮かべ、その国民性を現す典型とするのに良い逸話になるだろうと書き始めると、その全く反対の面がすぐに思い起こされ、とても自分の体験だけではどうにもならないと悟らされるのだ。
極々限られた範囲でドイツ人と接しただけなのだが、その方がかえって捉えやすく、書きやすいのだ。そして、ドイツ人的性格というものがあると信じている。これは他のヨーロッパ人、スペイン、イタリア、フランスなど、地中海人種、アングロサクソンのイギリス人、北欧人と比べるとドイツ人的性格と呼べるものが際立ってくる。
もちろん、ここでドイツ人論を展開するわけではない。もっともそんな資格も能力も私にはない。ただ、バッハを人間として知るために、その時代とドイツ人気質を通して観るのが近道ではないかと思っているだけだ。
私が知り合ったドイツ人は、私に対して皆親切だった。親切を通り越しておっせかい焼きだった。ケルンの演劇監督、プロデューサーのギュンターは、『カサ・デ・バンブー』のすぐ上に住んでいたし、ベルリンのクルツさんは、坂を50mばかり上ったアパートに、アーヘンの心臓外科医、ホアン・カルロス先生家族もクルツさんと同じアパート、俳優のジーンとハインツも、もう少し坂を登ったところに別棟の小奇麗なアパートを持っていた。そこへ、ドイツ政府のスペイン語公式通訳官のバーバラさん、そして彼女が連れてくるお役人、自家用飛行機でやってくるディーター、ハンブルグで出版社を持つヘング、オスカーを中心にしたユダヤ人グループがやってきて、ロスモリーノス界隈は、ドイツの植民地だと言われていた。
彼らは自分の家族、友人、知人などを引き連れて『カサ・デ・バンブー』に来てくれるので良い客だった。それなりに彼らを常連、上客として扱ったつもりだが、ギュンターをはじめ揃いも揃って、常連面を臆面もなく押し付け、私たちがいなければこのカフェテリアは成り立たない、私たちあっての『カサ・デ・バンブー』だと態度、顔が見え隠れし、それが鼻についてきた。
『カサ・デ・バンブー』の料理はこうした方がいいという忠告に始まり、ドイツ人の顧客を大切に扱うためのイロハを教授したがるのだ。台所にまで入ってくる御仁もいた。メニューは見開き2ページの簡単なものだったが、スペイン語、英語、フランス語、そして彼らが額を寄せ合って訳したドイツ語が加わった。そして、ドイツ語の部分だけが奇妙に長く、説明的だった。
それを「ハイ、ハイ、ごモットモなことです、貴重な忠告、進言どうもありがとう…」と受け流すのが彼らを扱うコツだとすぐに気が付いた。彼らに対して下手に出て、いつも被保護者的な存在でいることが彼らと巧く付き合う“手”なのだ。間違っても、いくら小さくてもこれはオレのショーバイだ、余計な口出しはするな…と言ってはいけないし、そんな態度をチラリとでも見せてはならないのだった。
彼らイビサ島のドイツ人グループのパーティーにも随分招待された。もちろん、会話はすべてドイツ語だから、話の詳細は分からないにしろ凡その推測はつく。それに、いつも誰かが進行中の会話の粗筋を英語に通訳してくれた(彼らは一様に片言のスペイン語しか扱えなかった。通訳のバーバラさんは別格だが…)。そんなドイツ人グループのパーティーに、ドイツ語を話せない私をどうして呼んでくれるのか、不思議な気がした。よそ者は私だけだった。
-…つづく
第24回:人間としてのバッハという男 その2
|