第348回:流行り歌に寄せて No.153「絶唱」~昭和41年(1966年)
前回冒頭でも触れたが、まるで昭和41年に駆け込み乗車するように、舟木さんの曲を2曲続けてご紹介したいと思う。
昭和30年代から40年代にかけて、歌い手さんが映画に登場し、その主題歌を歌うことが大いに流行っていた。但し、そのスタイルには2パターンがあった。
ひとつは、最初に歌手が歌ってヒットした曲を、同名のタイトルで映画化したもの。たいがいその歌手は、主役ないし脇役で出演し、劇中でその曲を披露するのが一般的だった。レコード発売と映画上映がほとんど同じ時期というものも少なくなかった。
もうひとつは、曲とは関係なく、あらかじめ作られた映画作品に主役ないし脇役で出演した歌手が、その主題歌を劇中で、あるいはその後にレコーディングして歌うものである。
舟木一夫で言えば、前者が前回ご紹介した『哀愁の夜』、後者が今回ご紹介の『絶唱』がそれに当たる。通常は前者の方が圧倒的に多く、御三家の他の二人、橋幸夫、西郷輝彦も自分のヒット曲の同名映画というものに数多く出演していた。蛇足だが、時代はかなり下って、山口百恵は多くの文芸作品の映画に出演していたため、後者のものが数多い。
さて『絶唱』は鳥取県出身の作家、大江賢次によって書かれた小説で、昭和33年に発表された。その年に小雪役・浅丘ルリ子、園田順吉役・小林旭で滝沢英輔監督によって日活で映画化されて以来、全部で映画化3回、テレビドラマ化が5回という、大変な人気作品である。
私たちの世代では、舟木一夫の大ヒット曲もあり、日活の和泉雅子との共演版がやはり最も印象に残っている。彼女の花嫁衣装が美しく哀しかった。もっとも、私自身がこの作品の内容を知ったのは、当時、妹の読んでいた月刊少女漫画に掲載された、今でいうコミック版『絶唱』である。和泉雅子の美しい死化粧を観たのも、上映からかなり時間が経った後に、テレビの映画劇場で放映されたものが最初だった。
「絶唱」 西條八十:作詞 市川昭介:作曲・編曲 舟木一夫:歌
1.
愛おしい 山鳩は
山こえて どこの空
名さえはかない 淡雪の娘(こ)よ
なぜ死んだ ああ 小雪
2.
結ばれて 引き裂かれ
七年を 西東
いのち短く 待つ日は永く
泣きぬれた ああ 小雪
3.
山番の 山小舎に
春が来る 花が咲く
着せて空しい 花嫁衣装
とこしえの ああ 小雪
なぜ死んだ ああ 小雪
舟木一夫が映画『絶唱』の出演を受けた時、最初は主題歌を歌う予定はなかったそうである。しかし日活の宣伝部から「やはり彼が主題歌を歌うべきだ」と指摘を受け、舟木本人が西條八十の自宅を訪ねて作詞の依頼をしたとのことである。
この時、西條八十は74歳。その4年後の昭和45年に亡くなっている。大正7年、創刊間もない雑誌『赤い鳥』に『かなりあ』を載せて以来50年を越える詩人、作詞家生活の最晩年とも言える年の作品だった。
作編曲の市川昭介は、当時もう大変な人気作家だったが、それまでに西條八十との仕事は、私が今回調べた限りではなかった。中山晋平、古賀政男、万城目正、古関裕而、服部良一ら錚々たるメンバーの作曲家たちと仕事をしてきた西條八十とコンビを組めたことは、本当に誇らしいことだったと思う。
舟木の歌唱については、前回も書かせていただいたが、この曲にも、声質の素晴らしさを生かす、高低音をバランスよく発声できる彼の技能が表われている。日本を代表する詩人の詞に、才気あふれる作曲家が曲をつけ、若く表現力のある歌手が歌う。良い歌にならないはずがない。
当時、家族、学校の友だちなど、私の周りのほとんどの人々は、この年の第8回日本レコード大賞は『絶唱』で間違いないと信じていた。ところが受賞をしたのは、橋幸夫の『霧氷』だった。私たちはかなりショックを受けた。橋幸夫の素晴らしい歌唱は充分理解しているつもりだが、誠に失礼ながら、今でもなぜ『絶唱』ではなかったかという思いは残っている。
この曲は、やはり舟木ファンには大変に人気があり、前回ご紹介した舟木ファンを対象にした『あなたが選ぶ舟木一夫ベストソング』では、『高校三年生』『学園広場』『哀愁の夜』に次いで4位にランキングされている。
ところで、先ほど『絶唱』は三度映画化されたと書いたが、最後が山口百恵・三浦友和版であった。これは和泉雅子・舟木一夫版の9年後の昭和50年に東宝で製作されたものだが、面白いことに監督は同じ西河克己である。
百恵版が出た頃は、雅子版との時代の隔たりを、私は大きく感じたものだが、その間はわずか9年、百恵版ができてからはすでに43年が経過している。
-…つづく
第349回:流行り歌に寄せて No.154「すてきな王子様」~昭和41年(1966年)
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