第583回:Homo currere;走る人、90Kmウルトラマラソン
それぞれの国によって人気スポーツが異なるのは当然です。一つの国の中でさえ、ある地方、ある民族だけが熱狂する競技がたくさんあります。私が大好きな相撲も、決してオリンピックの競技種目にはならないでしょうけど、日本でだけ人気があるスポーツです。
アメリカのお祭り、主に大学祭とか秋のビールやワイン・フェスティバルで、相撲大会が催されますが、これは相撲スーツなる着ぐるみを着て、太ったお相撲さんに扮してぶつかり合うだけの面白半分の遊びです。“スモウレスリング”として知られてはいますが、一風変わった日本の格闘技と捉えられ、柔道や空手のように世界に広まることはないでしょう。
人類は(オット、大きく出ましたよ…)、直立歩行を始めた時から動物を追い、仕留めるために速く静かに走る能力が要求されてきました。誰よりも速く走るのは生き延びるための必須条件であり、それは戦いに勝つためでもあり、逃げるためにも健脚であることが何よりも大切なことだったのでしょう。
世界最大のウルトラマラソン(参加者が多いという意味で…)は、南アフリカの“コムラッズ・マラソン(Comrades Marathon)”でしょう。今年2018年度の参加者は19,058人もおり、90キロ近くの距離を走り抜こうとスタートラインについているのです。コースはクワズールナタール(KwaZulu-Natal)州の州都であるピーターマリッツバーグ(Pietemaritzburug)と南アフリカ第3の都市、ダーバン(Durban)の間なのですが、その年により、下りは90.189キロ、上りは87キロと変わります。
この“コムラッズ・マラソン”がとてもユニークなのは、文字通り参加し、完走することに重点を置いているからです。およそ60ヵ国からのランナーが参加します。現在、ニューヨーク・マラソン、ボストン・マラソンなどの国際大会では優勝者に莫大な賞金が出ます。そして、スポーツウェアやシューズメーカーがスポンサーに付き、強化合宿で専門のコーチが付き、スポーツ科学に則ったトレーニングを受けます。もちろん、そうでもしなければとても勝てないからです。
ところが、この南アフリカのウルトラマラソンには、オリンピックを目指すような有名な選手は誰も参加しません。そんなハードなレースで体を壊してはモトモコモないからでしょう。それに、賞金などまったく出ないからです。
このマラソンのユニークなのは、上位、先着10名に金メダルが与えられ、銀メダルは7時間以内にフィニッシュしたランナー全員に、そして銅メダルは9時間から11時間の間に入ったランナー全員に与えられます。あれっ? それじゃ7時間と9時間の間にゴールした人は…といえば、別のビル・ブラウンメダルという特別賞が与えられるのです。
ビル・ブラウンさんは1921年(なんと97年前です…)、このマラソンが始まった時の優勝者で、完走タイムは8時間59分でしたから、それ以内にゴールを踏んだ人は、全員にビル・ブラウン賞メダルが贈られます。なんというメダルの大判振る舞いでしょう。実際、90キロ内外を走ってきた人にとって、4位だろうが8位だろうが1,284位だろうが、そう違いはないはずで、ウルトラマラソンという、他人と競う競技ではなく、ひたすら自分への挑戦、自分との戦いに相応しい、表彰の仕方だと思います。
この“コムラッズ・マラソン”は、南アフリカ共和国では、アメリカのスーパーボール、ワールドシリーズに匹敵する大人気で、長時間のテレビ実況中継は高い視聴率を誇っているといいます。
それにしても、最前列のランナーがスタートしてから最後列のランナーが走り始めるまで3、4分はかかり、長い行列が長大な蛇のようにズルッと動き出す光景は奇妙なものです。
よく見ると、流石に皆よく走り込んでいるのでしょう、脛や太ももが筋張っていて、パワーを感じさせますが、中には結構小太りの人、ビール腹のランナーもいたりで、姿、身体を見ただけで、この人完走は無理じゃないかと傍目に思わせる御仁もいます。
参加資格は、オリンピックのフルマラソンの距離、42.195キロを5時間以内で完走した人というだけです。もちろん自己申告制です。
今年は下りコースで、ダーバンに12時間以内に到着したランナーは6,000人もいました。時間切れ寸前にゴールしたランナーたちは皆が皆、ヨレヨレで、足が機械的に動いているだけの人形のようですが、フィニッシュラインを踏み越した時、それぞれがまるでオリンピックで優勝したかのように喜び、達成感に浸っていました。
もちろん、今か今かと待ち受けていた家族の人たち、友人たち、先にゴールした人たちに抱きかかえられ、祝福されます。フィニッシュラインを踏んだ人は、何時間かかろうが、皆自分との戦いに勝った人たちなのです。
-…つづく
第584回:自分で性別を選べる時代
|