第13回:酒場サルーンと女性たち その13
■エッタ・プレイス その3
エッタ、サンダンス、ブッチの3人組がいつチョリラの牧場を引き払ったのかハッキリしない。1905年から1906年の初めにかけてだと思われる。アルゼンチンの南端リオ・ガジェイゴの町外れに小さな家を借りたのが1905年の2月のことで、その時点ではまだチョリラの牧場を完全に放棄していなかったようにも見受けられる。
しかし、ピンカートン探偵社の捜査の手が回っていることを敏感に嗅ぎつけ、逃亡生活に踏み込む決意を固めていたことは確かだ。彼らの牧場があるチョリラからリオ・ガジェイゴまでは直線距離にしても1,000キロ以上あり、西のアンデスの山麓は険しい山道だし、一旦東の大西洋側に抜け、それから南下すると、どうにか道らしい道があったにせよ、膨大な遠回りになる。
こんな地の果ての町リオ・ガジェイゴの銀行を襲ってどうのように逃亡する計画だったのだろうか。いつも周到な逃亡ルートを確保してからシゴトにかかるブッチにしては、場当たり的なシゴトだと思う。すぐにも、チリに抜けるつもりだったのだろう。
いずれにせよ、ブッチとサンダンス、エッタの3人組がアメリカでのアウトロー生活をスッパリと止め、アメリカの西部辺境そのままの南米、アルゼンチンのパンパスで開拓民の生活をするという夢は破れたのだ。チョリラではパイオニアたちの厳しい自給自足に近い生活だった。豪奢を一度でも味わったことのある者にとってはまさに天と地の違いがあり、余程硬い、持続する意思がない限り、辺境で暮すのは難しかったのではないか。
歴史に“もし”はないが、もしピンカートン探偵社が執拗にブッチたちをアルゼンチンの地の果てまで追跡しなかったなら、ブッチ、サンダンス、エッタはチョリラで生涯を終えただろうか。私はそうは思わない。サンダンスとエッタは2、3度アメリカに帰っているし、その度に派手に散財している。ブッチもしきりに孤独を訴えている。遅かれ早かれ、アウトロー暮らしに舞い戻ったと思う。
このリオ・ガジェイゴの銀行襲撃には、ハービー・ローガン通称キッズ・カーリーが加わっているのはまず間違いない。だから、銀行強盗はエッタを加えた4人で行った。キッズ・カーリーはオハイオ、ノックス郡の監獄を脱出して、ワイルドバンチ復活とばかり、ブッチのいるアルゼンチンへと駆けつけた。
どこまでピンカートン探偵社の調査を信用できるかという問題はあるが、他の史料はアルゼンチンの新聞『クラリオン』しかないので、それらに添って話を進める。
彼らは少なくとも4回、強盗を働いている。1906年3月2日のサン・ルイス、メンドーサなどで地元の新聞では“Bandido Invisible”(目に見えない盗賊、透明人間盗賊)と書きたている。が、ブッチ以外にもグリンゴ(アメリカ人)の強盗団がいたし、南米人もグリンゴを装って銀行強盗を働いていたから、新聞記事に載った“Bandido Invisible”のどれがオリジナル?ワイルドバンチの仕事だったのか、確定できない部分もある。
南米の地図を広げてみて驚くことは、その広大さ、そして南端からチリの太平洋岸を北上してボリビア、ペルーに至るまでの長大な距離だ。それをブッチ、サンダンス、エッタの3人組は馬、列車、馬車を乗り継いで北上し、ボリビアに入っているのだ。
問題は、いつどこでエッタがサンダンスの元を、南米を離れたかだが、それが分からないのだ。彼女が現れたのもサンダンスとの関連だけで突然だったが、エッタはまた忽然と西部史から消えたのだ。
様々な推測が飛び交ったが、実証できない憶測の域を出なかった。エッタは南米に留まったという見方もある。
アメリカ人女性エディス・マエこそエッタであったというのだ。エッタはサンダンスとブッチが、ボリビアのサン・ビセンテで殺された報を受け、エディスと名を変えパラグアイに逃れ、そこで、ボクシングのプロモーターであり、大金持ちのテック・リカルドと一緒になったというのだ。
また、エッタと容姿がぴたりと一致するアメリカ女性がアルゼンチンのチュバートで撃ち殺されている。彼女はエッタに違いないというのだ。それが1922年の3月のことで、いや、1924年に自殺しているアメリカ女こそ、エッタだと誠に千差百論だ。
一般に広く信じられているのは、エッタはアメリカに戻り、名前をユーニス・グレイと変え、テキサスのフォート・ワースの娼館に戻り、そこで1962年まで生きたというのだ。これは地元フォート・ワースの新聞記者デルバート・ウイルスが書いているのだが、グレイは自身がエッタだと認めはしなかったが、グレイが南米にいた時期が、エッタの南米滞在期間と一致すること、また容姿が良く似ていること、それにエッタはまだアメリカでお尋ね者だったから、自分がエッタだと吹聴するわけにいかなかったことなどから、ユニース・グレイがエッタであった可能性は非常に高いとしている。加えて、1911年のパナマからの船便の乗客名簿にユニース・グレイの名を見つけ、エッタは名を変え、パナマに流れたに違いない…ということになったのだ。
ところが、ユニース・グレイの姪なる人物がユニースの高校の卒業写真を見つけ、エッタと比較したところ、専門家の判断を仰ぐまでもなく、全くの別人だと判明したのだった。

アン・バセット(Ann Bassett)
*クリックで顔写真
もう一つの有力な説は、エッタ・プレイスはブッチの恋人?であったアン・バセットだというものだ。確かに二人は年頃も同じだし、背丈、顔形も似ている。二人の写真をロス・アラモスのコンピューター分析研究所に持ち込んで調べたところ、主任のトマス・G・カイル博士は額にある微かな傷跡まで同じで、エッタとアンは同一人物だと断定してよいと結果が出たのだ。
だが、歴史家はアンが南米に行ったことはないし、エッタがサンダンスと連れ立ってアルゼンチンにいた期間、アンはワイオミングで牛泥棒兼牧場をやっており、おまけに1903年にユタで結婚しているのだ。
何んとしても、エッタ=アン伝説に拘る人たちは、エッタがサンダンスと別れた後、1905年から1907年の間にアンは南米に行き、どこかでブッチとサンダンスに加わったというのだ。この説は、エッタとアンに寄せる心情が生んだものだろう。
ここで私にエッタの結末を全くの想像で述べさせてもらえば、3人組が北上したのは、すでにピンカートン探偵社の捜査の手が回っているアルゼンチンではなく、南北に奇妙に細長いチリだったと思う。そこで、首都のサンティアゴに近い大きな港町ヴァルパライソから北米に出ている船に乗ったのではないか。今でもそうだが、南米を女性一人で旅するのは危険だ。まして、ユニース・グレイの変名を使ったとしても、アルゼンチンを横切りパラグアイまで女一人で行ったとは考えにくい。
乗客名簿の裏付けもなしに言うのだが、ヴァルパライソからサンフランシスコに着き、そこで有名な1906年4月18日の大地震に遭遇し、主に街の中心部を襲ったガス管破裂による大火で死んだ3000人という死者の一人になったのではないか…と夢想している。サンフランシスコの街の80%が崩壊し、20万人が家を失っている大地震があったのだ。
多分に日本的というのか、私はエッタが北米に帰って娼婦業に戻り、ボロ切れのような老婆になったエッタの姿を見たくない、知りたくない情動が働いているのは承知の上だが。あの写真のまま死んで貰いたいという思いがある。
どうにも、私は克明に事実を突き詰める歴史家にはなれない性格の持ち主のようだ。
第14回:酒場サルーンと女性たち その14 ■ファニー・ポーター
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