第14回:酒場サルーンと女性たち その14
■ファニー・ポーター
再三登場した娼館の経営者、ファニー・ポーター(Fannie Porter;1873-1940)とはどんな人物だっただろうか。つぶよりの女性を抱え、客層も金回りの良いアウトローだけでなく、地元の実業家、銀行家を相手にしていた娼館を経営し、西部史にこの人ありとばかり名を残したファニー・ポーターはイギリスで生まれた。そして最後まで、アメリカ国籍を取得せず、イギリス人で通した。
1873年3月に生まれたのは確からしいが、彼女がまだ1歳になるかならない時にアメリカに両親と共に移住している。父親がどんな技術を持っていたのか、アメリカでどんな仕事についていたのかさえはっきりしていない。だが、相当貧しかったことだけは確かだ。というのは、ファニーは15歳の時にすでに娼婦業に染まっていたから、それ以前、少女から一人前の女性になる過程で、娼婦の館が何をするところかツブサに知っていたと思われる。

ほとんど唯一と言われているファニー・ポーターの写真
ヴィクトリア調に髪型、ドレスを決めている
自分自身が春をヒサグのではなく、娼婦たちを住まわせる旅籠を経営する立場に立ったのが20歳の時だったから、ファニーには天賦のビジネスセンスが備わっていたのだろう。広く知れ渡る娼館になるのは早かった。場所はテキサスはサン・アントニオ、デュランゴ通りとサンサバ通りの交わるところにあり、その界隈はスポーティング地域と呼ばれていた。そこで開いた娼館が西部に広く知れ渡っていた。
いくら早熟と言っても、20歳の小娘でしかもイギリス人なのだ。娼館にする建物をリースし、内装を整えるには相当な資金が必要だが、ファニーは15歳からの5年間で必要な資金を溜め込んでいたらしいのだ。彼女には貯蓄、投資の見極めが備わっていたことは、大繁盛していた娼館をスパッと辞めたことでも判る。ファニーがショーバイを辞めた時、彼女は小銭のレベルではなく大金持ちにランクされるような財産を築いていた。
と言っても、ファニーは彼女の元で働く娼婦たちから不当な上前を撥ねていたのではない。それどころか、彼女たちを良く守ったと言える。ファニー・ポーターの娼館はいつも清潔で、内装は流行りのヴィクトリア調だった。18歳から25歳の女性を、しかも厳選するかのように、えり抜いていた。数は5名から8名で、それ以上は決して増やさなかった。
また、一旦ファニーの館で暮らし始めたら、娼婦たちに一種の教育を、いかにエレガントに、しかもセクシーに振る舞うかを教え込んでいた。それが男どもにいかに高いお金を払って貰う要因であるかを教えたのだ。彼女自身の経験がモノをいったのだろう、娼婦たちをとても大切に扱った。
ファニーの娼館を訪れる顧客たちも、シャワーを浴び、髭を剃り、こ綺麗な服装に取り替え、紳士然としてやってきた。埃にまみれたカウボーイ、1月以上着たきり雀の鉱夫らに足を踏み入れさせなかった。ワイルドバンチの連中も、田舎紳士よろしく正装?し、一仕事終えた鬱憤(うっぷん)をファニーの娼館で晴らしていた。
当然のことだが、地元のシェリフとはナアナアの関係を上手に保っていた。どうしても癖の悪い男がなだれ込んできたり、館の女性に暴力を振るう輩が出た時には、町のシェリフに頼らなければならなかったからだ。売春は合法だったが…。
ファニーは15歳から売春を始めているのに、どこでどのようにヴィクトリア調の躾を自分の下にいる娼婦たちに教えることができたのか不思議だ。彼女は自分の出生、家族のことを黙して語らなかった。それは自分の仕事が家族の面々に悪影響を及ぼす、決して誇れる仕事でないと自認していたからだろう。それがアメリカ西部に知れ渡っている最高の?一番人気の娼婦の館であるにしろ。
ファニーがアメリカに渡ってきたのは彼女が1歳の時で、イギリスの影響は両親から受けただけだと思われるが、ファニーは見事に娼館の女性たちをコントロールしたが、拘束はしなかった。
ファニーがどのような契約で娼婦たちを集めていたのかわからない。男どもから幾ら取っていたのかもはっきりしない。そのあたり微妙な商売のようで、娼婦により、また時期により、細かく価格を変動させていたようだ。また、客が払う金額の何%の上前を撥ねていたのかも、一定の線があるのではなく、すべて状況次第だったようだ。
一つだけ確かなことは、たとえアウトローが泊まっても、ファニーは決して官憲に通報しなかった。たとえ聞き込み捜査で圧力をかけて来ても、客のことは決して漏らさなかった。加えて、娼婦たちにも顧客のことは外に漏らすな…と指導していた。
だが一つ、ネック、弱みがあった。ファニーは、当時、まだハイテックであった電報を盛んに使い、予約受付をしていたことが、ピンカートン探偵社やUSマーシャルが嗅ぎ付けたのだ。公には電報は私信で、他に漏らすことはできないのだが、受送信するオペレーターは官憲が圧力をかけるまでもなく、ファニーに入った電報を見せたのだ。オペレーターも小役人だったのだ。
地方の財閥、大牧場主、アウトローたちは、電報で何月何日にそちらへ行くから、誰々を確保しておけ、と盛んに予約し、ファニーもそれを歓迎した。19世紀終わりの娼婦業はハイテック、電報を駆使した事業になっていたのだ。
娼館の良し悪しは、当然のことながら、そこで働く女性で決まる。
有名なテキサスの五人組の写真にあるワイルドバンチのメンバーすべてが、ファニーの店の女性を愛人にしていた。サンダンス・キッズの愛人、恋人エッタ・プレイスがファニーの元で客を取っていたかどうか、ただピアノを弾いていただけだと思いたがる史家も多いが、ともかく出入りしていたのは確実だし、前述したラウラ、そしてカーヴァーがラウラを捨て、結婚した(この結婚の婚姻届などの書類は存在しないが…)リリー・デイヴィス、キッド・カーリーのガールフレンド、デラ・ムーアもファニー・ポーター卒業生だ。
ファニーは二度逮捕されている。ワイルドバンチなどアウトローが頻繁にファニーの娼館に出入りしていることを嗅ぎつけたローマンが、ファニーに泥を吐かせるために別件逮捕したのだ。いずれも、即日釈放になっている。
彼女はアウトローたちのことを、客のことを決して漏らさなかったが、四六時中娼館を見張られるようになり、ファニーは見極めよく1901年に館を閉めている。ファニー・ポーターの館は、実質8年足らずしか営業しなかったことになる。
娼館のマダム業を辞めたのは、彼女が30歳前の時だ。その後のファニーの行方は分からない。相当な財産を築いていたのは確かで、変名でイギリスに帰ったとも、テキサスはエルパソで1940年に交通事故で死んだ老嬢がファニーだと言われているが、いずれの説にも確証はない。
いずれにせよ、ファニーは自分の前歴を隠し、語らない賢明さを持っていた。黙することで、西部史からスッパリと消え去ったのだ。
第15回:酒場サルーンと女性たち その15 ■アニー・ロジャース、あるいはデラ・ムアー、またはマウド・ウィリアムス
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