第249回:流行り歌に寄せて No.59 「可愛い花」~昭和34年(1959年)
新しい年を迎え、このコラムも昭和34年に入る。偶然のことだが、このコーナー59回目が1959年。この年、私の家では二つの記念すべき出来事があった。
一つは、私の妹が生まれたこと。今では何かと世話になりっぱなしで、まったく頭の上がらなくなってしまった妹だが、生まれた時は、お兄ちゃんとしてやはりうれしかった。うっすらとした記憶として残っている。それが、もう55歳になる。時は律儀にクールに流れて行くものだ。
もう一つはテレビが家に入ったこと。廊下伝いの二軒長屋で、隣屋が先に持っていたテレビ観たさに、私が入り浸っていたことに気兼ねして、父がかなりの無理をし、購入してくれたのだ。まさに、狂喜乱舞。正直、妹の誕生よりうれしかったのだと思う。
今回、ザ・ピーナッツを取り上げるに当たり、ほぼデビューからリアルタイムで聴いたことのある歌手が、ようやく出てきたなあという感想を持った。
彼女たちは、17歳でこの年の2月「日劇コーラスパレード」でデビューし、その時に『可愛い花』を初披露する。翌々4月に同曲がレコード発売され、その翌々6月にはフジテレビ系の歌謡番組「ザ・ヒットパレード」のレギュラーに大抜擢されるのである。
私は14インチの小さなテレビ画面で、デビュー早々からの彼女たちの姿を観ていたのだ。
「可愛い花」 F.Bonifay:作詞 S.Bechet:作曲 音羽たかし:訳詞 ザ・ピーナッツ:歌
プティット・フルール 可愛い花
その花のように いつも愛らしい
プティット・フルール お前のその
花びらのような 紅い唇
黒い瞳が 男心を なぜか迷わせる
プティット・フルール 天使のように
可愛い この世の花よ
※小鳩のような その胸に
いつか恋も 芽ばえて……
プティット・フルール その名のように
可愛い この世の花よ※ (※くり返し)
プティット・フルール プティット・フルール プティット・フルール
もともとこの『可愛い花』は、ニューオリンズのジャズ・サックス奏者のシドニー・ベシェが1952年に妻のために作曲したもので、その2年後、フェマンド・ボニファイらがシャンソンの歌詞をつけ、ヨーロッパで人気を得た曲である。
日本にも間もなく『小さな花』という邦題をつけて紹介され、鈴木章治や北村英治などジャズ・プレイヤーが好んで演奏していた。
いわゆる和製ポップスのはしりとなった『可愛い花』を、世に知らしめた第一の功労者は、編曲を手掛けた当時27歳の宮川泰であろう。彼はザ・ピーナッツの育ての親として、デビュー前から彼女たちに熱心に歌唱指導をして、その後の栄光の時代をともに作っていった。
管楽器、ギターを取り入れ、リズム・セッション(ピアノ、ベース、ドラムス)ともどもの小粋なアレンジで、ザ・ピーナッツの魅惑的なコーラスを後押しする。宮川本人によるピアノは、シャンソンの香りを漂わせたお洒落な音色で、これが実に良いのだ。
名古屋出身のザ・ピーナッツは、商業高校では名古屋市内でも一二を競う就職実績を持つ、名古屋市立西陵商業高校(現在は名古屋市立西陵高校)に通っていたが、2年生時で中退し「伊藤シスターズ」の名前で名古屋市内を中心に音楽活動をしていた。
昭和33年、渡辺プロダクションの渡邊晋社長(実はプロダクションを興す寸前だった)の目に止まりスカウトされ上京し、彼の家に下宿して宮川の指導を受けていた。
渡邊プロダクションの設立とザ・ピーナッツのレコード・デビューは同年同月の昭和34年4月であるから、彼女たちはハナ肇とクレージーキャッツとともに、設立当初からナベプロを支えてきた二大看板だった。
そして昭和50年に引退するまでの16年間、彼女たちは一貫してナベプロ所属のタレントを通したのである。
ザ・ピーナッツは『可愛い花』の後も『キサス・キサス』『情熱の花』『乙女の祈り』『悲しき16才』『月影のナポリ』『ルナ・ナポリターナ』などのオリジナルが欧米である和製ポップスを次々とレコーディングしていく。
当時は競作流行りの時代で、上記の曲の中でも、やはり人気の高かった森山加代子、坂本九、松島トモ子、ダニー飯田とパラダイスキングらとの競作曲がある。
そして彼ら若くて元気のある歌手たちは、人気番組「ザ・ヒットパレード」の中で、実に多くの欧米のヒット曲を日本語訳詞で歌い、しのぎを削っていったのである。
-…つづく
第250回:流行り歌に寄せて
No.60 「浅草姉妹」~昭和34年(1959年)
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