第821回:モノ書きの道具、鉛筆
私たち、現代に生きている者は、手でモノを書く習慣を失いつつあるように思えます。日本語では習字という筆字の伝統、芸術があるにもかかわらず、通常の文書はパソコン、ワープロで打ったものが圧倒的に多いように思います。
米語でも、手書きはバースデイカード、クリスマスカードか、簡単なメモだけになってしまいました。手書きで、古式豊かな手紙が来ると、ワーッ手書きだと歓声をあげたくなります。そして、その文字や文章からそれを書いた人の人格、人柄が浮かんでくるような気持ちになります。
ダンナさんの父の母親が巻紙に筆で書いた手紙など、まるで芸術のようです。と言ってから、ほんの百数十年前の筆書きの手紙、ダンナさんでさえ、スラスラ読めなかったのです。これじゃ、筆書き文化がすたれるわけです。それどころか、ダンナさんの父親の日記、十冊以上大学ノートに書きつけたものですが、それですら読めない部分や文字が何箇所もあり、普通並かそれ以上本を読み、古典に素養が多少はある?と思っていたダンナさんですら、「ウ~ム、これどう読むのかな……」と詰まっています。
その日記、大半はペン、万年筆で、数ヵ所鉛筆で書かれていて、かれこれ100年近く経っているのに、ペンで描いたところはインクが薄れず、クッキリと浮き上がるように見て取れます。ところが、鉛筆で書いたところは、文字自体がかすれ、ボケてしまっています。
これじゃ、鉛筆に勝ち目はありません。どうも鉛筆で書いたものは寿命が短いようなのです。
私自身、鉛筆が好きで、論文、報告書などの下書きは鉛筆で書いていました。ボールペンはかすれたり、インクの出が悪かったり、やっと調子が良くなったと思ったら、今度はインクが出過ぎたりで、少し長いモノを書くには指や手首が疲れるところがあるように思います。最も私の場合、手近にあるホテルや歯医者さん、学会などでタダでくれる宣伝が入っている安物ばかり使っているせいかもしれませんが…。シェーファーなどの高級品は使ったことがないので、あまり偉そうなことは言えません。万年筆の方は持ったこともありません。
手動式のタイプライターの方は、高校の授業で教えられますが、どういうわけか、私はタイプを教える先生より早く、正確に打てるようになり、1分間に120語は打てました。それから、ワードプロセッサーの時代になり、そしてパソコンに移り変わって行きましたが、自慢じゃないけど、普通のスピードなら会話、講演をそのまま打つことができました。
おかげで、手首の腱鞘炎になり、奇妙な手首サポーターをしなければならないハメに陥りましたが…。
さて、鉛筆ですが、モノを書く仕事のほとんどをパソコンで済ませるようになったのに、まだ簡単なメモなどは鉛筆を使うことが多くあります。
ダンナさんもスケッチや大工、機械仕事をする時、絵図や計測値などには鉛筆を使っています。最も彼が愛用しているのは、アメリカで大工用(carpenter pencil)と呼ばれている鉛筆で、普通のものより平べったく、芯も丸形でなく平な四角で、一本で細い線と太い線の両方を描くことができます。
ダンナさんが以前、スケッチを盛んにしていた時に使っていたのは、トンボ鉛筆のモノグラフ(mono-graph)と三菱のUNIでした。今見るとまだメイド・イン・ジャパンとありますから、コツコツとどこか町工場で作っていたのでしょうか。
アメリカ製、メイド・イン・USAの鉛筆など、安く大量に入ってくる中国製に押され、とっくの昔に消え失せていた、と思っていたところ、まだ鉛筆を作っている会社がありました。
テネシー州、ナッシュヴィルの南、60マイルのところにあるシェルビーヴィル(Shelbyville)という町で細々と生産していました。この会社は、“マスグレイブ(Musgrave)”といいます。一昔前には20社以上あったのが、今では全米で4社しか残っていません。このシェルビーヴィルの町は“鉛筆の町”と呼ばれていますが、工場は大きめの個人のガレージほどしかなく、家内工場に毛が生えた程度の規模なのです(写真で見ただけですが…)。
一時は100人もの工員を雇い、年に7,200万本も鉛筆を出荷していたと言いますが、今では中国製、ブラジル製などに押し切られ、潰れないで経営していくのがやっとという斜陽産業のようです。今手元にあ6、7本の鉛筆のメーカーを見たところ、残念ながらMusgrave社のものは一本もありませんでした。ダンナさんが使っている大工鉛筆だけがMusgrave社のものでした。
ついでに、にわか知識を仕入れたところ、鉛筆を作り始めたのは案外古く、1564年にイギリスで良質の黒鉛(graphite)が発掘され、それまでガチョウの羽のペンをインクに浸けて書いていたのを、誰もが黒鉛で書くことができるようになったとあります。
でも当初は、かなり太めの黒鉛をジカに手で握っていたようですが…。そこへフランス人の発明家ニコラス・ジャック・コンテ(Nicholas-Jacques Conte)という人が、生の黒鉛そのものではなく、一旦粉にし、鉛を混ぜ、常に均一した濃さでモノを書くことができるように工夫し、この時から黒鉛の混ぜ具合で、柔らかく真っ黒なものから固く細書きができるモノまで段階的に等級を付けることができるようになりました。
アメリカで最初に鉛筆を作ったのは1812年のことで、『森の生活』(原題:On Walden Pond)の作家、ソローの父親、ジョン・ソローです。息子のヘンリー・デイヴィッド・ソローが親父さんの工場で作った鉛筆で名作を書いたかどうか分かりませんが…。
子供たちが“モノを大切にしない”筆頭が、小学校入学以来毎年のように持たされる鉛筆、色鉛筆ではないでしょうか。アメリカでは子供たちに毎年新しい鉛筆セットを買い与える習慣があり、一本の鉛筆を使い切るという感覚が全くありません。半分も使わない、古い鉛筆、色鉛筆は束になって大きな筆立てに突っ込まれるか、引き出しのゴミとなっています。
とここまで書いていたら、ダンナさん、日本の小説家、稲垣足穂(1900ー1977年)は、小中学校の周りを散歩して、落ちている鉛筆を拾い、それで原稿を書いていたと教えてくれました。稲垣先生、それでも余りあるほどの、あらゆる種類の鉛筆が手に入る……と言っていたそうです。
一つのモノを大切に使うという習慣を子供の時から躾けるには、まず鉛筆を大切にすることを……なんて言ったら、お婆さん今時何言ってんの! と馬鹿にされそうですが…。
第822回:エライジャ君の悲劇
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