第377回:流行り歌に寄せて No.182 「天使の誘惑」~昭和43年(1968年)
ちょうど今から50年前の夏の甲子園。北四国代表の愛媛県立松山商業高校と北奥羽代表の青森県立三沢高校との対戦となった決勝戦は、延長18回、両校譲らず0−0の引き分けとなり、翌日再試合となった。
この試合、松山商業の井上明投手と、三沢高の太田幸司投手は、ともに18回を一人で投げ切っている。
翌日の再試合では松山商業は井上投手を先発に起用したが、主にもう一人のエース中村哲投手が投球、一方の三沢高校は太田投手が9回を投げ切ったが、結果は4−2で松山商業が勝利を手繰り寄せ、優勝を果たした。
敗戦投手ながら、決勝戦で27イニングを投げ、準々決勝から数えると4日連続で45イニングを一人で投げ切った太田投手は、ハーフ特有の甘いマスクの魅力もあって、若い女性を中心に圧倒的な人気を持ち、後には「元祖・甲子園のアイドル」と呼ばれた。
その太田幸司が、同年のドラフト会議で近鉄バッファローズに1位指名された時のインタビューで「好きな女性のタイプは?」と聞かれて、「黛ジュンさん、です」と、その前年のレコード大賞歌手の名前を挙げた。
太田幸司は昭和27年1月23日生まれ。一方、黛ジュンは昭和23年の5月26日生まれの団塊世代で、少しだけお姉さんになるが、20歳を少し超えたばかりの、いわゆる「一人GS」アイドル。なかなかお似合いのカップルだったと思うが、その後ロマンスへ発展したという話は聞かない。
現在で言えば、同じ東北出身の甲子園アイドル、吉田輝星投手のお相手は? ということなのだろうが、何せ女性大人数グループ歌手全盛時代、個人で燦めく歌手がいないのは寂しい限りである。
「天使の誘惑」 なかにし礼:作詞 鈴木邦彦:作・編曲 黛ジュン:歌
<歌詞削除>
黛ジュン、本名・渡邊順子は大変に早くから歌手活動をしており、昭和31年、8歳の時にはすでに人前で歌を披露していたという。
昭和39年には、本名を新字にした『渡辺順子』という名で『ダンケ・シェン/ロリポップ・リップス』と当時流行のスタイルである、洋楽の日本語訳カヴァー曲で、レコード・デビューした。その後、同年に2枚のシングルを出すが、ヒットには結びつかなかった。
昭和42年に石原プロモーションに移籍し、敬愛する黛敏郎から一字をもらい、よりポップ調ということで、子どもの子を外してカタカナでジュン、『黛ジュン』という芸名で再デビューを果たした。最初の曲が『恋のハレルヤ』、次いで『霧のかなたに』、そして『乙女の祈り』。次々とヒット曲になった。
当時、私も「ハレルヤー 花が散っても ハレルヤ 風のせいじゃない」「愛しながら別れた 二度と逢えぬ人よ 後ろ姿さみしく 霧のかなたへ」「恋にもえる 胸の願いはひとつ 好きな人とかたく 結ばれたい」などと、しきりに口ずさんだものだった。
大変にノリの良い曲が続き、愛らしい表情と、そのキュートなミニスカート姿も手伝って、瞬く間に人気歌手になっていった。
そして、昭和43年5月に『恋のハレルヤ』『乙女の祈り』と同じ名コンビ、なかにし礼、鈴木邦彦の提供による『天使の誘惑』が発売される。
私も数限りなく口ずさんだ、お洒落で、大変に可愛らしい曲で、当時本当に良くヒットしたという記憶があるが、今回調べてみると、オリコンの週間ヒットチャートでは3位が最高であり、トップには立てなかった。(因みにこの頃はザ・タイガースの『花の首飾り/銀河のロマンス』、千昌夫の『星影のワルツ』、鶴岡雅義と東京ロマンチカの『小樽のひとよ』などの錚々たるナンバー、がベスト3圏内に入っていた)
しかし、見事にこの年の「第10回日本レコード大賞」を受賞している。黛はもちろん、なかにし、鈴木両氏も大賞は初めてのことである(なかにしは、その前年、黛の『霧のかなたに』、ザ・ピーナッツの『恋のフーガ』で作詩賞を受賞している)。
現在、日本レコード大賞の現存している最古の映像と言われる「第10回日本レコード大賞」の白黒放送のビデオ(翌年からはカラー放送)をYouTubeで観ることができる。この年限りで司会を降板したという三木鮎郎が懐かしい顔を見せており、黛に先輩としてアドバイスしている様子が映し出されており、微笑ましい映像になっている。
さて、当時はあまり思いつかなかったが、今回、頭で少しよく考えてみたが、この『天使の誘惑』というタイトルの意味がわからない。歌詞を読んでみても、どのような意図でこう名付けられたのか、根拠が見当たらないのである。
けれども、大変に良いタイトルであることは間違いなく、この曲を実際に聴いていると、とてもしっくりくる気がするのが、本当に不思議なのである。
-…つづく
第378回:流行り歌に寄せて No.183 「エメラルドの伝説」 ~昭和43年(1968年)
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